2017年11月1日水曜日

コスト・ダウンをやめ、コスト・アップを図れ

先日、加世田の若手農家Kさんのところにいって、ショウガを仕入れてきた。

「南薩の田舎暮らし」では「ジンジャーエールシロップ」を製造・販売しているが、この原材料となるショウガはKさんから仕入れている。

実は、自分でも2年ほどショウガを作付して作ってみたものの、どうも上手にできなくて、プロのKさんから買った方が美味しくできるのでKさんに頼っているのである。

ところで、今回のショウガの仕入れにあたり、一つ誇りたいことがある。

それは、ショウガの値段を1キロあたり250円から300円に上げてもらったことである。

値上げは、Kさんからお願いされたわけではない。自分の方から、1キロあたり300円で買い取らせて欲しい、と逆の意味での「価格交渉」をしたのである。

Kさんの方からは、別に値上げしてほしいという要望はなかったし、業者にいくらで卸しているのかも知らなかった。でも、自分たちで考えてみて、ショウガが1キロ250円はちょっと安すぎる! このままでは何か悪い感じがする! と思って値上げしてもらったのだ。

このように、仕入れ先からの交渉によらず、自分たちの考えで仕入れの値段を上げるということは普通のビジネスではちょっと考えられないことだと思う。普通は、仕入れの値段を下げようと交渉するものだ。

でも仕入れ値をあえて上げさせているからといって、私が大儲けしているわけではない。もちろん、「ジンジャーエールシロップ」の売れ行きがいいということはあるが、今年ようやく黒字になった程度である。それどころか、国民年金保険料の免除・減額の手続きをしたり、相変わらず貧乏な暮らしは続いているのである。

それでも仕入れ値を上げてもらったのは、1キロあたり250円はフェアでない価格だと思ったからだ。フェアトレード、という考え方は何も途上国相手にだけ適用するべきものでなくて、通常の商売においても常にフェア(公正)を念頭に置くべきだと思う。

そしてもうひとつ強く言いたいことがある。

今の時代、コスト・ダウンではなく、コスト・アップが必要だ、ということだ。

もう20年以上も続く不況によって、ビジネスではコスト・ダウンばかりが叫ばれ、誰もコスト・アップを試みる人はいない。当たり前である。コスト・ダウンをすれば利益が増える。利益が増えれば給料が増える。コスト・ダウンをすれば効率化になる。効率化ということは生産性があがる。生産性があがるということは、GDPが増える、ハズだった。

だが、逆からみればそれは正しくなかった。コスト・ダウンをすると、コストを削減された業者にとっては収入が減るということだった。社会全体がコスト・ダウンばかりしていると、実はみんなの収入が減ってしまう。購買力が落ちるから、ものが売れなくなる。コスト・ダウンによって生産性を上げるどころか、ものが売れなくなって生産性が落ちてしまった。

その上、コスト・ダウンというのは、無駄の削減である場合は必ずしも多くない。

無駄を削れ、とよく言われる。だが、ビジネスのフローにおいて本当に無駄な部分というのは実は少ない。鉄板の厚みを1mm削る、といったことも、単に強度や耐久性を犠牲にしているだけのことが多い。強度や耐久性なんて無駄なんだ! といえばそれまでかもしれない。でも、そういうことを20年も続けてきたおかげで、世の中には軽薄短小な安物ばかりが増えてしまった。

一方で、極限にまで無駄を切り詰めているビジネスの世界で、未だに書類にはハンコが必要だ、といったような馬鹿らしい無駄がはびこっているようにも見える。無駄を省き続けた20年、日本は一切無駄のないスマートな社会になったんだろうか? とてもそうは見えない。本当に省くべき無駄が温存されて、品質や人々の暮らしが犠牲になってきただけなのではないか?

そもそも、無駄を省くとか、効率性を上げるということは、実はコスト・ダウンを図ることによっては成し遂げられないことだ。効率化するにはむしろ、冗長な部分を作ること、余白を作ること、贅肉をつけることから始めなくてはならない。一度余裕のある状態にしておいて、そこから新しく効率のよい道筋を探るというようにしないと、余裕のないギチギチの状態から無駄をなくそうとしても、部分的には最適化できるかもしれないが全体はどんどんいびつになっていく。

筋トレでも、最初から筋肉をつけるのは難しい。最初はたくさん食べて贅肉をつけ、それをトレーニングによって筋肉に変えていくのが王道である。ただ痩せたいならひたすらトレーニングを続ければ減量はできるが、本当の意味での体作りにはならない。だがこの20年、日本社会はひたすら無駄を省くという過酷なトレーニングをするばかりで、体作りはしてこなかったのではないだろうか。

だから私は提唱したい。コスト・ダウンではなく、今度はコスト・アップを図ってはどうかと。これは簡単である。取引先に行って、これまで100円で仕入れていたものを110円にしてくださいと頼めばいい。断る人は誰もいないだろう。

そんなことをしたら利益がなくなる! と思うかもしれない。これまでギリギリにまで切り詰めていた製造コストを、いきなり上げるなんて不可能だと。確かに、あなたの会社だけがコストを上げるならその通りである。だが、それを社会全体でしたらどうか?

仕入れコストも大きくなるが、ものの値段も少しずつ上がる。だから給料も上がる。社会全体がコスト・アップすれば、基本的には社会全体の収入は増える。そしてもっと重要なことは、100円で卸していたものが110円に値上げできるとすれば、その製造会社には10円分の余力が生まれ、新たな創意工夫の余地が生まれるということなのだ。

コストを切り詰められる、ということは、打てる手がどんどん少なくなっていくことを意味する。100円のものを90円にコスト・ダウンしてくれといわれれば、出来ることは限られる。工程を減らし、原材料を減らし、人件費を安くし、手数はどんどん減っていく。だが、100円のものを110円にしてもよいと言われれば、その10円分は未来に向けて使うことができる。

また、コストを減らすことばかり考えていると、コストを減らすためのコストが見えなくなってくる。役所仕事が典型であるが、100円の無駄を省くために500円かける、なんてことは、実はよくあることなのだ。

先日、あるイベントの会議で、「通訳ボランティアを確保するにはどうしたらいいのか」みたいな議論がされていた。難しいことである。イベントのボランティアを確保するだけでも大変なのに、通訳まで出来る人に協力してもらうのはさらに難しい。

だからその場で「通訳は専門職なのだから、ちゃんと仕事として依頼したらよい」と発言してみた。そうしたら、「そうだよね。ボランティアでやってもらおうとするから難しいだけで、普通に依頼したら簡単だよね」という方向になってほっと一安心したのだが、今の日本社会はこういうことがよくあるのではないか。コストをちょっとでも削りたいがために、難しい課題をクリアしなければならないような場面が。

ちょっとのコストを削減するために知恵を絞るよりも、もっと生産的なことに頭脳を使った方がいいのである。

もちろん、こんな議論は理想論で、現場を知らない空想的なものだ、という批判はあるだろう。生き馬の目を抜く競争社会で、お願いされてもいないコスト・アップなどするのは馬鹿げていると。だが極限にまで無駄を切り詰めたその先には、もはや社会の発展など望めないのではないかと私は思う。

先日、経団連の会長が「国民の痛みを伴う思い切った改革を」と首相に提言したそうである。 ならば、まずは企業が自主的に利益を犠牲にして、コスト・アップを図ってはどうかと思う。取引先に値上げを促せばよい。すぐにでもできることだ。そうすれば、日本経済にどれだけよい効果があるかわからない。一時的には企業も痛みを伴うかもしれないが、長い目でみれば素晴らしい成長策になる。

コスト・ダウンはもう十分なのだ。コスト・アップを社会全体でやる方が、ずっと将来性がある。

私はショウガの仕入れでそれをした。次はあなたの番である。

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