2017年9月24日日曜日

神代三陵が等閑視されていた理由——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その5)

明治天皇の鹿児島行幸(山内多聞 画)
前回に見たように、鹿児島に神代三陵があるという説は幕末までにかなり確立していた。

ただし、それらが鹿児島の中のどこにあるか、というと異説がいろいろとあり、幕末の時点でも決定打と呼べる説はなかった。何しろこの頃は、古代の考証といっても考古学の考え方がほとんど援用されていない。地名や言い伝え、口碑流伝(こうひるでん)によって推測するのがこの頃の考証である。しかもそういった伝承を批判検証することなくそのまま信じ、その上考古学的遺物も調べないのだから、決定打がなかったのは当たり前である。

とはいっても、それは他の歴代天皇陵においても全く同じだった。「文久の修陵」によって神武天皇陵を急ごしらえで新たに築造したように、本来どこにあるのかという調査研究よりも、天皇陵をコンプリートするという政治的目的の方が優先され、根拠はあやふやなままでどんどん天皇陵を治定していったのが幕末であった。

そしてこの姿勢は維新後も変わらない。歴代天皇陵の確定に目途がついてくると、明治4年(1871年)には、全国の府・藩・県に対して后妃・皇子・皇女らの陵墓があるか回答を求める太政官布告が出された。天皇陵だけでなく、広く皇族の陵墓までもその対象として指定し、全国に皇室讃仰の拠点を配置していこうとしたのである。こうなると、鹿児島に神代三陵が治定されたのは当然のことのようにも思える。

だがこの明治4年の時点において、神代三陵については政府は全く指定するつもりがなかったようなのだ。行政文書などを見ても、神代三陵については特に触れられていない。祭祀すべき天皇陵は、あくまでも神武天皇陵に始まるのである。

ではなぜ明治政府は神代三陵を無視していたのだろうか? 「万世一系」の証拠となる天皇陵だけでなく、それに附属する皇族たちの陵墓まで確定させようとしていたのに、それよりもずっと重要に見えるその父祖たちの山陵を等閑視していたというのはどうしてか。

それを考えるために、改めて「神代三陵」とは何かを理解しておきたい。神代三代、あるいは日向三代(ひむかさんだい)とは、天孫降臨から神武天皇に至るまでの三代の神々を指す。具体的には、天孫ニニギ、その子ホオリ、そしてその子のウガヤフキアエズである。ウガヤフキアエズの子が神武天皇になる。

ここで少し、この神代三代の神話を簡単に振り返ってみよう(※)。

高天原(たかまがはら)を治めていたアマテラスは、下界がオオクニヌシらの善政によって栄えているのを見て国を譲ってもらえるよう交渉し承認される。アマテラスは孫のニニギを派遣し、ニニギが降り立ったのが日向の高千穂の嶽であった。これが天孫降臨である。

ニニギはやがてコノハナサクヤ姫という美女と出会い結婚する。しかしたった一夜のちぎりでコノハナサクヤ姫が身籠ったため、ニニギは「自分の子ではないのではないか」と疑った。そこで姫は出口のない部屋を作ってそこに籠もり、火をつけて燃えさかる産屋の中で出産。本当のニニギの子どもなら無事に生まれるだろうというのだ。

燃えさかる部屋の中で果たして無事に生まれたのが三兄弟で、その末っ子がホオリであった。ホオリは「山幸彦」として知られる神である。ホオリは、兄のホデリ(海幸彦)の釣り針を海でなくしたことで兄弟喧嘩になって、釣り針探しに海神の宮まで行き、海神の娘であるトヨタマ姫と結婚した。

トヨタマ姫はその出産にあたり、鵜の羽で屋根を葺いた小屋を作って、自分の出産を決して見ないようにホオリに申しつけておいたが、ホオリはその約束を破って出産を覗いてしまう。そこには、出産にのたうつ鮫(ワニ/龍)がいた。トヨタマ姫の正体はワニだったのである。正体を見られたトヨタマ姫は海神の下へと帰ったが、ここで生まれたのがウガヤフキアエズである。鵜の羽で屋根を葺き終わらない間に生まれたからそういう変わった名をつけた。

ウガヤフキアエズはトヨタマ姫の妹のタマヨリ姫を妻に迎え、そこで誕生したのが神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)である。

このように神代三代とは、天界から降りてきたニニギ、海神の宮に行ったホオリ、ワニから生まれたウガヤフキアエズと、いずれも神話的なエピソードに彩られている。

そこで読者諸氏に問いたいのだが、この神代三代の神々は、実在したと思うだろうか?

現代の人で、彼らが実在したと思う人はいないだろう。もしかしたら、こうした神話の元になった古代の英雄的人物はいたのかもしれない。きっと、古代社会のなんらかの習俗や、伝統や、歴史を反映して生まれた神話なのだろうとは思う。しかし、ニニギやホオリ、ウガヤフキアエズといった人物そのものが実在したとは、現代の常識に照らして到底考えられない。

しかし、神代三陵を政府が指定するということは、少なくともこうした神々の実在を公認することを意味した。なぜなら、実在しない人物の墓があるわけがないのだから。明治4年の段階で政府が神代三陵の指定をする気がなかったのは、おそらくこのおとぎ話的な神話を公認することに二の足を踏んだからではないかと思う。

というのは、明治政府の山陵政策にとって最も重要だったのは、これまで見てきたように神武天皇による「肇国の神話」を現実化し、「万世一系」の皇統を確たるものにすることだった。何しろ、既に王政復古の大号令において、「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」とされたくらいである。今の世に「神武創業」を再現することが、明治政府の理想の一つだった。

しかしそういう神武天皇ですら、本当は神話の彼方にあった。

記紀に記された神武天皇の事績を見ると、神代三代に比べるとおとぎ話的な要素は少ないが、やはり神話的人物であることは間違いない。そういう神武天皇の存在を無理矢理に歴史的事実へと変換するための装置が神武天皇陵の創出だったわけで、神代三陵のようなおとぎ話的なものまで公認してしまうと、公認の信頼性が下がって「神武天皇も実在していないのでは?」という疑問を惹起する可能性があったのである。

江戸時代や明治の人たちは、記紀の神話を素朴に事実だと信じ込んでいたのではないか? と思う人もいるかもしれない。神話と歴史の区別もつかなかったのではないかと。

でもそれは大きな間違いだ。既に江戸の中期から、記紀神話は歴史的事実ではないという考えはどんどん広まっていった。例えば、新井白石が享保元年(1716年)に記した『古史通』では神代の神怪談を人事の比喩的修辞と見なしたし、山片蟠桃が享和2年(1802年)に著した『夢の代』では、神代説話を後世の作為の産物であるとする見解を表明している。しかも山片蟠桃は、神代説話だけでなく神武天皇から仲哀天皇の部分までをも客観的事実の記録としては認めがたいとした。これは、大正時代になって津田左右吉が行った画期的な記紀研究と結論においてほぼ一致しているのである。

実は、江戸時代は合理主義の精神が花開いた時代でもあって、記紀神話を素朴に事実だと信じるようなことは、この時代の知識人にはなかったと考えられる。

記紀神話に記された年代から600年を減じなければ外国の史書と年代が合わないことを主張した藤貞幹の『衝口発』(天明元年(1781年))に対し、本居宣長は反発してこの説を葬り去ろうとした。これは「日の神論争」と呼ばれる上田秋成と宣長の激しい論争の発端になったのであるが、宣長がムキになった事実をもってしても、逆にこうした説が受け入れられる常識があったことが窺えるのである。それどころか、宣長の門人である伴信友でさえも『日本書紀』の紀年が辛酉革命の説によって作為されたものであることを論証しており(「日本紀年歴考」)、記紀神話が事実そのものであると信じることは、記紀を学問の根本に置く国学者にとってすら難しかったと思われるのである。

そもそも、国学の淵源の一つであった水戸学の根本『大日本史』においても、その始まりは神武天皇であり、それ以前の神話は歴史としては扱われていない。天皇の正統性を主張する『大日本史』においてすらこうだから、記紀神話が現実のものとは見なされていなかったのは明白である。

だから、明治政府が「神武創業」を厳然たる事実だと強弁しようとした時、知識人からの反論を予想しなかったとは考えられない。いくら社会が大混乱のさなかにあった時であるとはいえ、表立っては反論しにくいように歩みを進めていったに違いないのである。

そんな中で、神代三代の荒唐無稽な神話をも事実であると認めることは、あまりにも軽率なことであった。神代三陵を公認することは、明治政府の正統性と理念の象徴である「神武創業」が子どもっぽい嘘の上に成り立っていることを白日の下に晒す可能性があったのだ。

ところが、明治5年になって、明治政府はほとんど唐突に「神代三陵を始め(中略)等未詳の御箇所」を早く確定しなくてはならないと言い出すのである(明治5年8月29日、教部省伺)。

これはどうしてか。

ここから先は、史料上では明らかではない。だから、ここからは私の推測が入ってくる。そして、ここからが本題である。

明治5年に政府がいきなり神代三陵を確定させようとした事情は、きっと明治天皇の鹿児島行幸にある、と私は思う。

廃藩置県後の明治5年の5月、明治天皇は東京から西に赴き、大阪・京都・下関・長崎・熊本の各地を巡幸して、遂に6月22日には鹿児島に着いた。鹿児島に天皇を迎えるということは鹿児島の歴史にとって空前のことであった。

そして翌23日の午前6時、天皇は行在所の庭にしつらえられた拝所で、もっとありえないことを行った。可愛・高屋・吾平の神代三陵を、遙拝(遠くから拝むこと)して、御幣物を奉納したのである。この時点では、まだ神代三陵は政府によって確定していなかったにも関わらずだ。

このことがあったから、明治政府は神代三陵の確定を急いだのは間違いない。天皇が遙拝したその山陵が、本当は別のところにあったということになれば大変なことになる。明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した時点で、神代三陵の確定は既定路線となってしまった。

ではなぜ明治天皇は、まだどこにあるか確定してもいない神代三陵を遙拝したのだろうか? 江戸時代から育ってきていた合理的精神と対決してまで、神代三陵を実在のものとして扱ったのはどうしてなのだろうか?

(つづく)

※記紀神話の要約は、基本的に『古事記』に依った。

【参考文献】
『日本書紀 上 日本古典文学大系67』1967年、坂元太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋 校注
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『鹿児島県史 第3巻』1940年、鹿児島県 編
*冒頭画像は、『鹿児島市史 第1巻』(1969年、鹿児島市史編さん委員会)から引用したもので、明治神宮外苑絵画館に展示されているもの。

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