2017年7月15日土曜日

清水磨崖仏群と齋藤彦松

南九州市の川辺町、清水(きよみず)というところに日本でも有数の大規模な磨崖仏群がある。渓流に沿った断崖に、平安から明治に至るまでの様々な石刻が並んでいる。「清水磨崖仏群」という。

昭和33年(1958年)の7月10日、ここを一人の男が訪れた。

男は大学院に入ったばかり。研究テーマにしていた仏教史跡の調査が目的だった。男を案内したのは、地元川辺町の教育委員会にいた樺山 寛。そして鹿児島県の文化財専門委員の築地健吉が同行した。3人は車に乗り込み、渓流に沿う切り立った岩の下の道へ入っていった。そこに、磨崖彫刻が現れる。

「もう百メートルも自動車が徐行しているのに、磨崖彫刻群はつきそうにもない。これは量的にみても容易なものではない。半ば好奇心にかられた、私の心は、学術的な緊張へと変化していた」

これが、清水磨崖仏群と、それを終生の研究課題とした一人の男、齋藤彦松との出会いだった。

齋藤は、苦学・晩学の人であった。

佛教大学仏教学部仏教学科に入学したのが36歳の時。大正7年(1918年)に新潟に生まれ、高等小学校卒業後、新潟や京都で働き、また日本陸軍へも徴兵されながら、独学で勉学に励んだ末の大学入学であった。寺院に生まれたわけでもないのに、なぜか幼少の頃より仏教の思想と信仰に興味を抱いていた齋藤は、大学入学以前に仏教経典の古活字や石塔類の研究を既に始めていたという。

そして大学卒業の年に大谷大学大学院修士課程(仏教文化)に進学。これが清水磨崖仏群と出会う昭和33年のことである。齋藤は40歳になっていた。

齋藤と清水磨崖仏群との出会いは、どことなく運命的なものを感じる。

佛教大学での卒業論文は、「日本仏教磨崖仏の研究」。この論文執筆の調査のため、齋藤は昭和31年(1956年)7月に鹿児島へ現地調査に出かけていた。目的の一つは、鹿児島市の谷山、下福元にある如意山清泉寺趾の磨崖仏の調査だ。このため、五位野の願生寺というところの本堂に一晩泊まったのだが、齋藤が「この辺に自然生え抜きの岩に仏像梵字等を彫りつけたところはありませんか」とそこの住職に尋ねたのだ。

住職は「まだ見てはいませんが、この奥に当たる川辺町にそのようなところがあると聞いている」と返事した。

その時は次の調査日程が詰まっていたから後ろ髪を引かれながら鹿児島を離れたが、齋藤はずっとそのことが気になっていた。

ちょうどこの頃、齋藤は、真言宗の高僧である児玉雪玄を初めとして、各地の梵字の専門家に梵字の指導も受け始めた。梵字は、齋藤が生涯を掛けて追い続けるテーマになる。

進んだ大谷大学大学院での指導教官は、五来 重(ごらい・しげる)。五来は、柳田國男から刺激をうけた民俗学の手法を仏教に応用し、「仏教民俗学」を打ち立てる。齋藤を指導していた頃は、五来自身も博士論文の準備中。それまでつまらぬものと切り捨てられていた路傍の石仏などに注目し、民衆がどのように仏教を受容してきたのかをまとめつつあった。

磨崖仏の研究、梵字の勉強、そして五来から受けた民俗学的手法の指導。そうしたものが形になり始めていたとき、清水磨崖仏群と邂逅したのである。このように、齋藤にはこの史跡の価値を見いだす知的な素地が準備されていた。

齋藤が見いだすまで、清水磨崖仏群は地元でも貴重なものとは思われていなかった。磨崖仏がある所は、昔から「清水の岩屋」と呼ばれる景勝の地であったが、それはあくまで桜の名所としてのことだった。磨崖仏は平家の残党が世を儚んで刻んだものと考えられ、桜の景観に「一段の情趣を添える」程度のものであった。

しかし齋藤は、この史跡を「恐らく梵字の生地インドにも之以上のものは存在しないのではなかろうか」と、すぐさま高く評価する。

刻まれた梵字や仏塔の数もさることながら、清水磨崖仏群には造営の年代が記された作例が存在することも重要で、これによって九州各地の磨崖資料の年代をはかる物差しとなる可能性もあった。

一方で、磨崖仏は既に風化が進みつつあり早急に保存の手を打つ必要があった。齋藤は同行の文化財専門委員の築地に、県として保存するよう進言したようである。早くもこの翌年、昭和34年に清水磨崖仏群は鹿児島県の指定文化財となるが、これに際しても県では独自の調査をした形跡がなく、指定にあたっての調査報告書(築地が執筆)を見ても齋藤の研究の引用の形となっている。それだけ、齋藤の言が重んじられた証拠だ。

だが、齋藤は学界では評価されなかった。

そもそも仏教史学の王道は、教学史である。教学史とは、卑近な言葉で言えば、エライ人が何を言ったか、どういう思想を抱いていたのかを研究するものだ。「親鸞の思想」とか、「道元の哲学」とか。

一方で齋藤が研究したのは、名もなき人々による仏塔とか、梵字とか、そういうものだった。いわば、エライ人が言ったことを、民衆がどのように理解し、信仰し、表現したのか、それを路傍の石から考えた。しかし民衆による仏教の受容などということは、仏教史学の中では全くどうでもいいことと見なされていた。

だから齋藤の仕事は、「学問とは認めない」「好事家の仕事」と一蹴された。

齋藤自身、旧来の象牙の塔的な仏教史学に違和感があったのだろう。五来の指導を仰いだのも、こういう「正統的」な仏教史学にかなり批判的だった五来を慕ってのことだったのかもしれない。五来自身が、民衆による仏教の受容史を構築する際、仏教史学とも民俗学とも軋轢を抱えていたようである。

齋藤は、昭和38年(1963年)に博士課程を満了。大学に残って研究者の道に進むよう勧められたが、経済的な理由から断念したという。以後、京都上京区で印刷業を営む傍ら、「京都梵字資料研究所」を設立して、在野の研究者として生涯を通した。

「研究所」といっても、立派な学舎があるわけでもない。齋藤は商売の合間に、各地に残る梵字資料(古書および金石文梵字)を地道に収集し、日本に残る梵字の世界を少しずつ明らかにしていった。

北海道から沖縄まで、日本全国に梵字の残っていないところはないという。にも関わらず、齋藤以前には梵字について体系的な研究を行ったものはいなかった。古来より「悉曇学(しったんがく。悉曇文字=梵字)」というものはあったが、これはサンスクリットの音韻を扱うもので、梵字が日本人にどのように受容されたのか、日本人にとって梵字とは何だったのか、ということは全く閑却されていた。

齋藤は、日本全国をフィールドワークする中で、(1)字体・書体・字画など論理的で合理的な梵字を追求し、(2)梵字が体現する信仰の内容を明らかにする、ことを目的とする「齋藤梵字学」を打ち立てていく。齋藤は、梵字を追求する唯一無二の研究者になっていた。

最晩年の平成5年(1993年)からは、改めて清水磨崖仏群の研究に集中。この研究は、清水磨崖仏研究の集大成として『清水磨崖仏塔梵字群の研究』(川辺町教育委員会編)としてまとめられたが、平成9年2月15日、齋藤は刊行を待たずして帰らぬ人となった。

齋藤彦松梵字資料室がある「清流の杜」
齋藤は研究生活のスタートに出会った清水磨崖仏群と川辺町に、大変な愛情と情熱を注ぎ続けた。齋藤自身「自分の研究は清水磨崖仏群からはじまり、その研究はライフワークである」と語っていた。まさに、齋藤の研究は、清水磨崖仏群にはじまり、清水磨崖仏群で完結した。

齋藤が収集した資料や約5000冊の蔵書は川辺町に寄贈され、川辺町は「齋藤彦松梵字資料室」を設立。清水磨崖仏群を見下ろす岩屋公園キャンプ場に、一見禅寺風の立派な建物を建ててここに資料を収蔵した。その建物は「清流の杜」と名付けられた研修施設にもなっている。

ところで、死から2年後の平成11年、齋藤梵字学を理解しようとしていた小林義孝がこの資料室を訪れる。小林は、齋藤が残した大量の研究資料=「Saito Print」と呼ばれる一群の資料の収集と解読を目指し、齋藤の学統を継ぐ「Saito Print研究会」を組織していた。そして小林はこの調査の際、「齋藤彦松梵字資料室」から齋藤による『悉曇要軌』の草稿を発見する(※)。

これは、齋藤が晩年に梵字を学習するためのテキストとして、また日本の梵字の特質を示すために著したもので、Saito Print研究会ではこの草稿をまとめて平成16年(2004年)に摂津泉文庫から刊行した。『悉曇要軌』については未読であるが、小林によれば齋藤の梵字研究の到達点といえるそうである。「齋藤彦松梵字資料室」からの最大の成果といえるだろう。

ところで余談だが、昭和33年、初めて清水磨崖仏を訪れたその次の日、7月11日には、齋藤は坊津へ調査に行った。そこでもう一つの「発見」をすることになる。齋藤が「薩摩塔」と名付けた異形の仏塔と出会ったのだ。「薩摩塔」についての詳細は措くが、清水磨崖仏と同様、ここから「薩摩塔」研究がスタートする。齋藤が見いだしたもう一つの石造遺物であった。

もし、齋藤が川辺まで調査に来なかったらどうなっていただろう? もしかしたら、今でも川辺の磨崖仏は、桜の景観に「情趣を添える」ものとして朽ちるに任せていたのかもしれない。もちろん、齋藤が重要性を訴えなくても、結局は誰かが見つけてくれたのかもしれない。でも、何かの「価値を見いだす」ことは、何かを創るのと同じくらい、創造的な行為だと私は思う。そうなっている保証は何処にもない。

いや、それどころか、今でも日本全国には、一人の齋藤彦松との出会いを待っている、忘れられた歴史の遺物がたくさん眠っているはずだ。誰かに価値を認められなくては、ただ朽ちてゆく、本当は重要な遺物が…。地元の大浦町にだってあるかもしれない。皆が、つまらぬものと思い込んでいる何かが、実は歴史を理解するための重要な1ピースだった、ということはよくあるのだ。

ちなみに、来年2018年は、齋藤が清水磨崖仏群と薩摩塔を「発見」してからちょうど60年目の節目の年に当たる。川辺町は合併して南九州市となり、齋藤彦松梵字資料室も最近はやや閑却されているように見受けられる。資料はミュージアム知覧と分置され、体系的な展示・保管機能はもはやない。この記念の年に、改めて齋藤彦松という人を思い出しても悪くはないだろう。せっかくだから「薩摩塔」の研究とも絡めて、シンポジウムでも開いたらどうか。

「価値を見いだす」ほどでないにしても、ただ「思い出す」ことだって、きっと創造的行為なのだ。


※ この調査については、「仏教学と歴史考古学の狭間--齋藤彦松氏の梵字研究とSaito Print」という論文にまとめられているが未読。本論文に齋藤のライフヒストリーや業績の概要等がまとめられ、齋藤の研究の全貌が明らかになっているという。

※※ 文中敬称略といたしました。

【参考文献】
「斎藤梵字学の位置—斎藤彦松著『悉曇要軌』の到達点—」2010年、小林義孝 ←齋藤彦松の年譜その他、本稿の多くをこの論文に負いました。
『清水磨崖仏群』1964年、川辺町教育委員会
「清水佛教磨崖彫刻群の研究」1965年、齋藤彦松
『川辺町郷土誌』1953年、川辺町役場
『清水磨崖仏塔梵字群の研究』1997年、川辺町教育委員会編
『鹿児島県文化財調査報告書 第11集』1964年、鹿児島県教育委員会
『薩摩塔の時空~異形の石塔をさぐる~』2012年、井形進
※このほか、南九州市役所の上村純一さんのお話を参考にしました。

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