2017年11月16日木曜日

「立候補しなかった人」の責任

南さつま市長・市議選である。

私は、前回4年前の市議選において、「南さつま市 市議会だより」で市議の働きぶりを垣間見る という記事を書き、現職市議の働きぶりを一般質問の回数で表してみるということをした。

その記事でも書いたように、この回数だけでは働きぶりを判断することは出来ないが、少なくとも市政を糺していこうとする積極性くらいは表していると考えられるため、今回も同様の表を「市議会だより」からまとめて作ってみた。それが下の表である。
※今回の市議選に出ていない人も含めて現職議員全てを掲載。順番は質問回数+五十音による。
※年月は、「議会だより」の掲載号に対応。
※議長は室屋 正和氏

質問回数に応じてなんとなく色分けしてみたが、市議会の一般質問では「ほぼ毎回質問する議員」「ときどき質問する議員」「ほぼ質問しない議員」がいることがよくわかる。

ところで4年前の記事では、各議員の関心事項まで分析した。だがこの作業は大変時間がかかるもので(というのは、質問事項を「市議会だより」のPDFから簡単にコピーすることができないから)、ちょっと今その時間的余裕がないため、今回はその分析はしていない。

その代わり、今回の市議選に立候補している19人という集団についてちょっと述べてたいことがある。立候補者は次の通りである。

氏名 年齢 党派 新旧 主な肩書き
今村 建一郎 68 無所属 農業
有村 義次 66 無所属 農業
上村 研一 54 無所属 漁業
貴島 修 66 無所属 農業
大原 俊博 68 無所属 合資会社大原百貨店代表社員
清水 春男 62 共産 農業
竹内 豊 53 無所属 ゆたか代表
平神 純子 60 無所属 無職
古木 健一 75 無所属 無職
小園 藤生 59 無所属 有限会社コゾノ代表取締役
相星 輝彦 50 無所属 商業
坂本 明仁 55 無所属 消毒センター代表
松元 正明 60 無所属 農業
山下 美岳 67 無所属 商業
諏訪 昌一 63 社民 無職
林 耕二 74 無所属 商業
田元 和美 66 無所属 商業
石原 哲郎 64 無所属 農業
室屋 正和 68 自民 (株)日峰測地会長

さて、私が言いたいことは3つだ。

第1に、平均年齢が高すぎる。立候補者の平均年齢は63歳。任期最後の年には67歳になっていることになる。いくら高齢化した過疎の町といっても全人口の平均年齢はこれほど高くないから、市民の代表としては偏っていると言わざるを得ない。やはり、子育て世代(30〜40代)はもっと入ってなければならないし、20代の議員だって1人くらいはいるべきだと私は思う。

第2に、女性議員(立候補者)の数が少なすぎる。今回の選挙では平神 純子氏しか女性の立候補者はいない。市民の約半分は女性である。理想的には、議員だって半分が女性であるべきだ。なぜ女性が立候補しないのか、よく考えて対策していく必要がある。

第3に、そもそも立候補者が少なすぎる。南さつま市議会議員の議員定数は、今回削減されて20から18になった。それでも立候補者は19人。たった1人しか落選しない。議員の正統性は、選挙で選ばれたということにあるのに、ほとんど選択肢らしい選択肢がないことになる。それでも、少なくとも今回選挙が行われることになってよかった。立候補者があと1人少なければ、無投票になっていた。無投票では、市民の代表としての正統性がまったく担保されない。

もうお気づきの通り、この3つについては、ここに立候補している人には全く責任がない。「立候補しなかった人」に責任がある。若い人、女性がどんどん立候補しないから、こういう偏った議会が生まれる。結果として、議会を「わたしたちの代表」として感じられなくなっている。私たちは、どことなく不審感を持って議会をみていないか。

議会は、我々の利害を代弁し、市政を糺し、そしてみんなで「意志決定」をするためにあるところである。議会の決定が、南さつま市民の決定になる。だから私たちは、「私たちの代表」として信頼できる議会をつくっていかなくてはならない。そのためには、若い人や女性の議会への参画は必須だ。

ではなぜこうした人たちは立候補しないのだろうか? 立候補しさえすれば、確率的にはほとんど当選するとしても、やはり立候補しない理由はたくさんあると思う。田舎だから、票はかなりの程度固まっている(誰に投票するか決まっている)ということもある。それに、今の議会のシステムはほとんど自営業の人しか立候補ができない。でも自営業というのは大抵忙しいものであって、選挙の準備などやってられないということもある。さらに女性の場合、未だに「女のくせに出しゃばって」というような因習的な考えに阻まれることも大きいだろう。

こうしたことはすぐには変えられない。でもだからといって議員の平均年齢が60代の現状に甘んじていては、いつまでもまちを変えていくことはできない。「地方創生」は、結局は地方自治のリノベーションに行き着くのだから、若手・女性が強引に出て行かないと、衰退の道を歩み続けることになる。

とはいえ、まさに今選挙が行われているわけで、こんなことを今言ってもしょうがないことだ。今回の選挙については、現に立候補されている方をよく見て選ぶということ以外にはないのだし、これからの4年間については、選ばれた議員の方を我々の代表としてよりよい市政のために働いてもらうしかないのである。

でも、あと4年後にはまた市議会議員選挙がある。その時は、若手・女性が5人くらい立候補してしかるべきだと思うし、そう考えたら、もう今からそのムーブメントを起こしていかなければならないくらいだ。具体的に、それがどういう形をとったらいいのかは今イメージはないが、そういうムーブメントは、抽象的であっても大事な「まちづくり」だろう。

有り難いことに、私などにも「市議選に出てよ!」というような声がある。今のところ、まだ生活基盤が確立していないくらいで、自分のことや家族のことで精一杯だから、とてもじゃないが立候補などできない。それに、仮に立候補して当選したとしても、自分一人では議会で何もできないと思う。やっぱり、話が合う何人かの仲間がいて、「そうだそうだ!」とならない限り、集団の方向を変えていくことは無理である。これは誰にでも当てはまることだと思う。

だから私は、若手や女性がもうちょっと市政に関わっていく道筋を作っていきたいと思う。これは、「自分が関わっていきたい」というより、そういう人を増やしたいという話である。でも、今のところその道筋というのが一体どういうものなのかイメージがない。市政についてどんどん意見を言っていこうみたいな話ではないような気がする。そうではなくて、若手や女性の力でこの街を変えて行こうという気持ちを盛り上げたいということの方が近い。

そういう気持ちが街として盛り上がっていれば、市議選ももっと違ったものになるだろう。

2017年11月8日水曜日

街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

「石蔵ブックカフェ」の様子
今年の9月に、加世田の「ホンダフル」がつぶれた。マンガを中心とした古本、CD、古着なんかが置いてある、若者向けの古本屋だった。

それからすぐに、今度は「加世田ブックセンター」が閉店して、本町の通りに「加世田書店」として移転オープンした。店の面積は4分の1以下になった。実質的に「教科書販売」以外の機能をほとんど手放したように見える。

歴史を遡れば、加世田にはかつてもっとたくさんの本屋があったようだ。それが近年になってどんどんなくなった。「人口が減ってるんだから仕方ないだろう」という声が聞こえてきそうだが、実はそうでもない。加世田の中心部に限れば、人口は増えているくらいである。

それに、書店以外の商業施設は出店が相次いでいる。私は以前「ダイレックス」の出店について書いたことがあるが(【参考記事】ホヤ的な商売のススメ)、街の中心部にあった広大な「イケダパン跡地」が再開発されることになり、さらに複数の新規出店がある模様である。もちろん潰れていく店もあるにはある。しかし加世田中心部が、活気づいているというのは間違いない。

が、本屋だけは潰れていっている。なぜか?

本をよく読む人にとっては、Amazonで十分だからかもしれない。マンガや雑誌なら、コンビニで事足りる。加世田にはそれなりの人口があり、購買力があるのに、書店の需要はないということなのだろう。

今のところ、それなりの規模がある本屋が一軒だけ残っている。「TSUTAYA」だ。「それなりの規模」といっても、都会の基準で言えば小さな方である。

だが、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

これは、空恐ろしい想像だ。少なくとも図書館はある、といって安心するわけにはいかない。たびたび書いてきたことだが、鹿児島の図書館の貧弱さはカルチャーショックレベルである。図書館の人が悪いのではなくて、予算が圧倒的に足りていない。図書館が、人々の知的欲求に応える場になるには、仮に行政が本気になったとしても、まだまだ時間がかかる。

それに、本を所有する、ということは、人間にとって絶対に必要なことだと思うのだ。

誰にとっても、「初めて自分で買った本」というものがある。私の場合、それはジュール・ヴェルヌの『海底二万里』だった。郷里の吉田町(現・鹿児島市宮之浦町)にはちゃんとした本屋がなかったから、吉野町の春苑堂という本屋で買った。多分小学4年生くらいのこと。この1冊が、その後の私の読書傾向にどれだけ影響を与えたか知れない。いや、私の「人生」にどれだけ影響を与えたか知れない。

「初めて自分で買った本」は、ただの思い出深い本ではない。若者は、その1冊から世界を見る。世界の窓口になる。そこから、人類の知の世界へと、旅立っていく。歴史の突端に立つ人間として、過去を振り返る術を得る——。

その1冊は、もちろん図書館で借りた本でもいいのかもしれない。でも私の経験でいうと、やっぱりその本を所有して、背表紙を眺める経験をしていないと、その本は十分に窓口としての機能を果たさない。一言で言えば、その本への「愛着」が育っていないと、 世界に対する「愛着」が醸成されない可能性がある。

誰しも、ドキドキしながら書店員さんに本を差し出すという経験をしなくては、「世界」に入っていけないのだと、私は思う。

だから、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

若者は、本屋がなくてもちゃんと「世界」を知る人間になるんだろうか。インターネットがあるから大丈夫、と人はいうかもしれない。インターネットの方が、ずっと「世界」と繋がっているんだと。確かに、今の若者は英語が達者である。すごく頼もしい。私なんかより、ずっと「世界」を知っていると思う。そんな人も多い。

でも本当に、本屋がなくなってもそんな人がたくさん生まれてくるんだろうか。

「本」など単なるメディアにすぎないのかもしれない。情報が掲載された紙を束ねたものにすぎない。今の時代、「本」という形にこだわる必要はないのかもしれない。電子書籍で問題はないようにも見える。

でも「本」は、かなりの程度完成されたメディアの形である。少なくとも2000年くらいの時間を掛けて今の「本」の形は整ってきた。デジタル技術が進歩したといっても、まだその完成度には及ばない。大人にとってはデジタルデータで十分であるとしても、若者が手にするとすれば「本」の形になっている方がよほど親切だ。

少なくとも、小学生から中学生くらいまでの子どもには、紙の「本」が必要だし、それを所有することが必要だし、「初めて自分の意志で買った本」がなくてはならない。

それなのに、街から本屋が消えたらどうなるんだろう?

鹿児島市内に行って本を買えばいい、という話なんだろうか? 理屈で言えばそうだ。もし近所から本屋がなくなったら、実際そうするだろう。現実に、ここ大浦町には本屋がないから、加世田に買いに行く。でもそれすら、小さな子どもにとっては自由に行ける場所ではないのである。車で30分もかかる。本屋が街になくなるということが、文化の退潮でなくてなんなのだろう。

本屋が消えた街は、もはや「街」ではなく「村」だ。どれだけ人口が多くても。

私の考えでは、街から本屋が消えたら単に不便になるだけでなくて、もの凄く大きな文化的な損失が生じる。特に若い世代の知的な成長において。

だから街の住人は、本屋を維持する、という矜恃を持つ必要がある。本屋が潰れるに任せておいて、いいわけがないのだ。

そんな折り、懇意にしている古本屋「つばめ文庫」さんから古本の定期出張販売の話があった。これに私たち「南薩の田舎暮らし」も協力して、万世(ばんせい)の丁子屋石蔵で月例の「石蔵ブックカフェ」をすることになった。既に10月13日に初回を開催した。

【参考】石蔵ブックカフェ(第1回)ありがとうございました!(「南薩の田舎暮らし ブログ」の記事)

さらに、昨年も開催した「石蔵古本市」をより内容を充実させて今年も開催する予定である。

【参考】石蔵古本市vol.2(Facebookページ)

もちろん、こうした取り組みで本屋が潰れるをの食い止められるとは思わない。でも、少なくとも私たちが「石蔵ブックカフェ」のイベントをすれば、月に1回は万世に本屋ができる。小さなことでも、そういう集積で街の文化が形作られていくのではないかというのが私の密やかな期待である。

そんなわけで月例の「石蔵ブックカフェ」。直近だと明後日11月10日(金)に行われる。ぜひ寄っていただければ幸いである。


【情報】石蔵ブックカフェ
開催時間:毎月第2金曜日 10:00〜20:00(次回開催11月10日(金))
場所:南さつま市加世田唐仁原6032(丁子屋本店 石蔵)
「つばめ文庫」と「南薩の田舎暮らし」の共同開催。

2017年11月1日水曜日

コスト・ダウンをやめ、コスト・アップを図れ

先日、加世田の若手農家Kさんのところにいって、ショウガを仕入れてきた。

「南薩の田舎暮らし」では「ジンジャーエールシロップ」を製造・販売しているが、この原材料となるショウガはKさんから仕入れている。

実は、自分でも2年ほどショウガを作付して作ってみたものの、どうも上手にできなくて、プロのKさんから買った方が美味しくできるのでKさんに頼っているのである。

ところで、今回のショウガの仕入れにあたり、一つ誇りたいことがある。

それは、ショウガの値段を1キロあたり250円から300円に上げてもらったことである。

値上げは、Kさんからお願いされたわけではない。自分の方から、1キロあたり300円で買い取らせて欲しい、と逆の意味での「価格交渉」をしたのである。

Kさんの方からは、別に値上げしてほしいという要望はなかったし、業者にいくらで卸しているのかも知らなかった。でも、自分たちで考えてみて、ショウガが1キロ250円はちょっと安すぎる! このままでは何か悪い感じがする! と思って値上げしてもらったのだ。

このように、仕入れ先からの交渉によらず、自分たちの考えで仕入れの値段を上げるということは普通のビジネスではちょっと考えられないことだと思う。普通は、仕入れの値段を下げようと交渉するものだ。

でも仕入れ値をあえて上げさせているからといって、私が大儲けしているわけではない。もちろん、「ジンジャーエールシロップ」の売れ行きがいいということはあるが、今年ようやく黒字になった程度である。それどころか、国民年金保険料の免除・減額の手続きをしたり、相変わらず貧乏な暮らしは続いているのである。

それでも仕入れ値を上げてもらったのは、1キロあたり250円はフェアでない価格だと思ったからだ。フェアトレード、という考え方は何も途上国相手にだけ適用するべきものでなくて、通常の商売においても常にフェア(公正)を念頭に置くべきだと思う。

そしてもうひとつ強く言いたいことがある。

今の時代、コスト・ダウンではなく、コスト・アップが必要だ、ということだ。

もう20年以上も続く不況によって、ビジネスではコスト・ダウンばかりが叫ばれ、誰もコスト・アップを試みる人はいない。当たり前である。コスト・ダウンをすれば利益が増える。利益が増えれば給料が増える。コスト・ダウンをすれば効率化になる。効率化ということは生産性があがる。生産性があがるということは、GDPが増える、ハズだった。

だが、逆からみればそれは正しくなかった。コスト・ダウンをすると、コストを削減された業者にとっては収入が減るということだった。社会全体がコスト・ダウンばかりしていると、実はみんなの収入が減ってしまう。購買力が落ちるから、ものが売れなくなる。コスト・ダウンによって生産性を上げるどころか、ものが売れなくなって生産性が落ちてしまった。

その上、コスト・ダウンというのは、無駄の削減である場合は必ずしも多くない。

無駄を削れ、とよく言われる。だが、ビジネスのフローにおいて本当に無駄な部分というのは実は少ない。鉄板の厚みを1mm削る、といったことも、単に強度や耐久性を犠牲にしているだけのことが多い。強度や耐久性なんて無駄なんだ! といえばそれまでかもしれない。でも、そういうことを20年も続けてきたおかげで、世の中には軽薄短小な安物ばかりが増えてしまった。

一方で、極限にまで無駄を切り詰めているビジネスの世界で、未だに書類にはハンコが必要だ、といったような馬鹿らしい無駄がはびこっているようにも見える。無駄を省き続けた20年、日本は一切無駄のないスマートな社会になったんだろうか? とてもそうは見えない。本当に省くべき無駄が温存されて、品質や人々の暮らしが犠牲になってきただけなのではないか?

そもそも、無駄を省くとか、効率性を上げるということは、実はコスト・ダウンを図ることによっては成し遂げられないことだ。効率化するにはむしろ、冗長な部分を作ること、余白を作ること、贅肉をつけることから始めなくてはならない。一度余裕のある状態にしておいて、そこから新しく効率のよい道筋を探るというようにしないと、余裕のないギチギチの状態から無駄をなくそうとしても、部分的には最適化できるかもしれないが全体はどんどんいびつになっていく。

筋トレでも、最初から筋肉をつけるのは難しい。最初はたくさん食べて贅肉をつけ、それをトレーニングによって筋肉に変えていくのが王道である。ただ痩せたいならひたすらトレーニングを続ければ減量はできるが、本当の意味での体作りにはならない。だがこの20年、日本社会はひたすら無駄を省くという過酷なトレーニングをするばかりで、体作りはしてこなかったのではないだろうか。

だから私は提唱したい。コスト・ダウンではなく、今度はコスト・アップを図ってはどうかと。これは簡単である。取引先に行って、これまで100円で仕入れていたものを110円にしてくださいと頼めばいい。断る人は誰もいないだろう。

そんなことをしたら利益がなくなる! と思うかもしれない。これまでギリギリにまで切り詰めていた製造コストを、いきなり上げるなんて不可能だと。確かに、あなたの会社だけがコストを上げるならその通りである。だが、それを社会全体でしたらどうか?

仕入れコストも大きくなるが、ものの値段も少しずつ上がる。だから給料も上がる。社会全体がコスト・アップすれば、基本的には社会全体の収入は増える。そしてもっと重要なことは、100円で卸していたものが110円に値上げできるとすれば、その製造会社には10円分の余力が生まれ、新たな創意工夫の余地が生まれるということなのだ。

コストを切り詰められる、ということは、打てる手がどんどん少なくなっていくことを意味する。100円のものを90円にコスト・ダウンしてくれといわれれば、出来ることは限られる。工程を減らし、原材料を減らし、人件費を安くし、手数はどんどん減っていく。だが、100円のものを110円にしてもよいと言われれば、その10円分は未来に向けて使うことができる。

また、コストを減らすことばかり考えていると、コストを減らすためのコストが見えなくなってくる。役所仕事が典型であるが、100円の無駄を省くために500円かける、なんてことは、実はよくあることなのだ。

先日、あるイベントの会議で、「通訳ボランティアを確保するにはどうしたらいいのか」みたいな議論がされていた。難しいことである。イベントのボランティアを確保するだけでも大変なのに、通訳まで出来る人に協力してもらうのはさらに難しい。

だからその場で「通訳は専門職なのだから、ちゃんと仕事として依頼したらよい」と発言してみた。そうしたら、「そうだよね。ボランティアでやってもらおうとするから難しいだけで、普通に依頼したら簡単だよね」という方向になってほっと一安心したのだが、今の日本社会はこういうことがよくあるのではないか。コストをちょっとでも削りたいがために、難しい課題をクリアしなければならないような場面が。

ちょっとのコストを削減するために知恵を絞るよりも、もっと生産的なことに頭脳を使った方がいいのである。

もちろん、こんな議論は理想論で、現場を知らない空想的なものだ、という批判はあるだろう。生き馬の目を抜く競争社会で、お願いされてもいないコスト・アップなどするのは馬鹿げていると。だが極限にまで無駄を切り詰めたその先には、もはや社会の発展など望めないのではないかと私は思う。

先日、経団連の会長が「国民の痛みを伴う思い切った改革を」と首相に提言したそうである。 ならば、まずは企業が自主的に利益を犠牲にして、コスト・アップを図ってはどうかと思う。取引先に値上げを促せばよい。すぐにでもできることだ。そうすれば、日本経済にどれだけよい効果があるかわからない。一時的には企業も痛みを伴うかもしれないが、長い目でみれば素晴らしい成長策になる。

コスト・ダウンはもう十分なのだ。コスト・アップを社会全体でやる方が、ずっと将来性がある。

私はショウガの仕入れでそれをした。次はあなたの番である。

2017年10月27日金曜日

島津久光と明治政府の対立——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その6)

島津久光
明治天皇が神代三陵を遙拝してから5日後の明治5年(1872年)6月28日、既に天皇は出発の予定になっていたが、悪天候のため鹿児島に足止めされていた。

そうした機会を捉え、島津久光は衣冠束帯の姿を整えて天皇の行在所に赴き、徳大寺宮内卿を通じ天皇に「14箇条の建白書」を奉呈した。

その内容は、当時明治政府が進めつつあった各種の改革を強く非難するものであった。久光は、明治維新の立役者でありながら、いざその改革が進み出すと明治政府と対立した。明治維新は、彼の思惑とは違うものになってしまっていたからだ。

改革を否定する「14箇条の建白書」は、当然のことながら政府首脳からは全く相手にされなかった。久光はそれでもめげずに、明治7年にも建白書を出した。それは先のものと同様の傾向の内容を持つ、20箇条に増えた建白書である。そこで彼が非難した事項は例えば次のようなものだ。

(1)天皇の衣装を洋服に改めた
(2)西洋の暦(太陽暦)を導入した
(3)皇室までも全て洋風に倣うようになった
(4)各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている
(10)学校の規則を洋風にしている
(13)軍隊を洋式にしている
(16)邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない
(17)外国人との婚姻を許した
(20)散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている
※番号は20箇条の建白書における順序に対応。

ここでは洋風を断ずる事項のみ抜き出してみたが、これが建白書の約半分を占める。要するに、久光が嫌ったのは明治政府の「文明開化路線」であった。彼は元々かなり守旧的な傾向を持っていて、明治5年の「14箇条の建白書」でも身分の上下、男女の別が緩んでいることを批判している。すなわち、久光は明治維新後も封建時代の雰囲気のまま、「尊皇攘夷」を続けていたのである。彼は死ぬまで、髷を切らず帯刀を辞めなかった。

そもそも、久光は全く新しい政体を作るつもりはなかったようだ。彼は、薩摩藩を中心とした雄藩連合や公家が皇室をいただいた、いわば天皇中心の「連邦国家」を構想していたのかもしれない。それは各地に「藩」という半独立国が存在するという意味で、封建主義の枠内で構想された政体であっただろう。

しかし幕末には忠実な家臣だった大久保利通も、いざ明治維新が興ればその手を離れ、日本を近代国家に変えるための大仕事に着手していた。岩倉具視、木戸孝允、そして大久保らは日本を西洋風の中央集権国家に作り直そうとした。

そういう明治政府と島津久光の対立は、少なくとも明治2年、版籍奉還のあたりから本格化している。

版籍奉還自体は、明治2年(1872年)の正月に提出された薩長土肥の四藩による建白に基づいている。この建白書は四藩が自主的に出したものというより、政府がモデルケースとして四藩に率先して版籍奉還を行うよう求めた結果であるが、久光も版籍奉還の構想までは新政府にそれなりに協力的であったのだろう。しかし建白書を出したその1ヶ月後から、政府と久光の間には早くも暗雲が立ちこめた。上京して政府に協力するようにという天皇からの要請(勅書)があったのに、久光は病気を理由にそれを断ったのだ。

同様にこの要請を断ったのが長州藩の毛利敬親。薩長二藩は、明治維新をリードしながら、共に明治政府と対立を深めていた。

久光が天皇からの要請を断った理由が病気のためだけではなかったことは、その後幾度となく同様の要請が行われたことで知れる。

たびたび要請を受けた久光らは上京を決心。3月に京都に入り、天皇に謁見した。そして久光と敬親は「自分たちを要職につけてくれ」という趣旨の連名の建白書を奉った。結果、久光は「参議」に任命され、左近衛権中将を兼ね(これは形式的な官名)、従三位に叙された。

しかしそのたった数日後、久光はせっかく任命された「参議」を辞職する。これも表向きは病気をその理由にしていたが、本当に病気のためであるはずはなかった。改革を進める政府に、守旧派の久光の意見が受け入れられる余地はない。新政府には、既に久光の居場所はどこにもなくなっていたのだ。そこで久光はさっさと鹿児島へ帰ってしまう。

その後、政府は久光の慰撫に随分気を遣っている。 例えば6月には、戊辰戦争での功績を理由に久光を「従二位」に叙し、永世禄として破格の10万石を与えた。が、久光はこれをすぐさま辞退。久光によれば「陛下の神威と列聖在天の霊」による戦勝なのだから、自分などが賞典を受けるに値しない、というのだ。だがこれも表向きの理由で、久光の本心としては、体制内に取り込まれたくないという気持ちだったのだろう。しかしこの辞退はすぐには受け入れられなかった。

そうした中、明治2年6月17日、版籍が奉還され、久光の子で当時藩主を務めていた島津忠義が藩知事に任命された。当時、久光は薩摩藩主ではなかったし、一度も藩主を務めたことはなかった。彼は藩主の後見役に過ぎなかったが、「国父」として実質的な権限は久光の下にあった。つまり久光は形式的には明治政府と無関係でありながら、一方では西郷や大久保、それから大勢の士族たちを通じ隠然とした影響力を有していた。政府としては、久光は独立不羈の不気味な存在だったに違いない。

明治2年の6月には、久光の兄で前藩主の島津斉彬への「従一位」の追贈が行われた。明治政府の中でも追慕するものが多かった斉彬であり、これ自体は不自然な賞典ではないが、もしかしたら久光への慰撫という側面があったのかもしれない。

しかしこれを受け、明治3年(1870年)正月、久光は改めて位階を辞退する上表を行った。その上表文に言うには、明治維新にあたっての自分の功績は全て兄斉彬から受け継いだ「余慶」であるから、既に斉彬へ位階が追贈された以上、自分へも位階が叙されることは「褒賞を重ねる恐れ」があるというのだ。

この再三の辞退に、政府はしょうがなく「従二位」の奉還を認めた。だが政府は、久光を体制内にとりこもうとする努力をやめなかった。この年の5月には木戸孝允が毛利敬親を連れて鹿児島を訪れて久光親子と会見し、「二人相ともに力を朝廷に尽くして欲しい」と頼んでいる。

12月には、この件に関して正式な勅旨を伝えに、岩倉具視が鹿児島を訪れた。その勅旨に曰く「上京し、朕の輔翼大政を賛成し、各藩の標準となり大に皇基を助け」て欲しいと。また天皇からの詔書には、「久光は朕の股肱羽翼なり」とまで書いている。久光が天皇にとっての「股肱羽翼」、つまり一番信頼できる部下だというのだ。これはかなりの気の遣いようである。しかも岩倉は、大久保利通、山県有朋、河村純義なども引き連れていた。しかし久光は、勅使の岩倉に会うことすらしなかった。代理として息子の忠義に勅旨を受け取らせたのである。ここでも口実に使われたのは病気だった。

明治4年(1871年)に入っても、政府からの上京の要請はたびたび行われた。そこで、久光は仕方なく4月に息子の忠義を代理人として上京させ、病が癒えないため出仕できない旨を弁明させている。

そんな中で、明治4年の7月、廃藩置県が行われた。

廃藩置県こそは、明治維新の改革の中で最大のものであった。というのは、大久保利通や木戸孝允といった、中央政府で活躍していた英傑たちも、そもそもは藩の代表として維新に参与していた。彼らが重んじられたのは、その能力が評価されたのだとしても、元来は出身藩の権威・軍事力・経済力といったものがなくては、舞台にすら上がることができなかったのである。例えば大久保利通は、久光に取り立てられ中央政界に送り込まれるということがなかったら、おそらく歴史に名を残す仕事をしていないだろう。

だから、明治政府はその出発においては、雄藩連合の意味合いが強かった。藩を基盤にした政権だったし、人材も各藩から登用されていた。

ところが廃藩置県というのは、政権の足場ともいうべきその藩を自ら解体することを意味していた。一歩間違えれば政権が空中分解する可能性もある危険な施策であった。だがそれをしなくては、いつまでも明治政府は半独立の藩の連合体のままで、近代的な中央集権国家になることはできなかった。
 
各藩主にとっては、廃藩置県とは長く築き上げてきた領地と財産をたった一篇の勅令によって政府に取り上げられることである。そんなことが容易に認められるわけがなかったし、政府内においてもこれを主導した西郷隆盛は矛盾に苦しんだという。一度は殉死しようとまでした先君島津斉彬公の残した薩摩藩を自分の手で解体してしまってよいものかと。西郷はその矛盾を、明治天皇への忠誠によって乗り越える。今や新しい君主として西郷は天皇をいただいていた。斉彬への忠誠と天皇への忠誠は矛盾しなかった。より大きな立場で忠君愛国を貫くことで、西郷は廃藩置県を敢行したのである。

一方久光は、西郷や大久保には、決して廃藩だけはするなと申しつけておいたらしい。この指示は結局無視されたわけで、廃藩置県が行われるや久光は激怒し、憂さを晴らし不満を表明するため、一晩中花火を打ち上げたと伝えられる。廃藩置県に対する公然たる反対であった。

廃藩置県から2ヶ月後の明治4年9月10日、政府は久光の「積年の功績を褒し」て、別に家門を立てる勅書を出した。分家の命令である。島津本家を継いでいるのは息子の忠義で、久光は後見人にすぎなかったが、その久光を独立させたのである。勅書では、体裁上褒賞の形をとっているが、これまでいくら久光に上京を促しても、名義上は当主である息子の忠義を派遣したり、忠義に弁明させたりといったことが続いたので、久光その人を動かすために強制的に分家させたことは疑いない。

同じく9月には、廃藩置県に基づき県令として大山綱良が鹿児島に赴任した。こうして800年にわたる島津家の鹿児島支配はあっけなく終わった。

そして時を同じくして、政府はあらためて久光を「従二位」に叙した。「たびたびの固辞があってやむをえず受け入れたが、改めて宣下することにした」という。このあたりから、久光と明治政府の対立は意地の張り合いとでもいうべきものになってくる。

9月にはまたしても岩倉具視からの上京の依頼。「皇国の前途の興廃安危は則ち薩長土の三力」が頼みであり、再三久光に上京を要請したにもかかわらずそれが無視され続けて今日まで来たことは「実に茫然の仕合」だと。しかしこれに対しても、久光は即座に断っている。理由は「旧来の足痛」である。

久光は、明治政府は早晩瓦解すると考えていたようだ。かつての忠君たちはもはや藩の力で中央政府に登用されたことも忘れ、基盤である地方の意見も聞かずに急進的な改革に溺れている、と久光は考えた。このような政体は、長続きするはずがないと。だから久光は、明治政府から距離をとろうとした。そして10月には、またしても病気を口実にして、「従二位」の位階を返上したい旨上表したのである。このあたりの明治政府と久光の応答はほとんど押し問答に近く、文面は極めて慇懃であって滑稽ですらある。

明けて明治5年(1872年)には、忠義から改めて「せめて従二位の拝授を遅らせて欲しい」との上請も行われた。病気が癒えるまで上京することができないという理由だった。

これまで、明治2年から5年に至るまでの島津久光と明治政府の動向をかなり詳しく見てきた。

久光にとって、明治政府はかつての部下が自分への恩義も忘れて好き勝手な改革を弄んでいるように見えたから、当然気にくわなかっただろう。しかも急進的な改革は、実際に旧社会を良かった部分も含めて急速に破壊しつつあって、彼の不満もただの感情のもつれというわけでもなかった。事実、久光は反政府の旗手とみなされ、全国から反明治政府的な内容の建白書が届いたくらいだという。久光は、明治政府にとって怖ろしい敵になってきていたのだ。

その上、久光とはまた違った理由から、鹿児島の士族たちが反明治政府的になっていったのはよく知られている通りである。士族たちの不満は、ある意味では失業問題であった。明治維新を主導したはずの士族階級は、雇い主である藩がなくなったことで解雇され、無職になってしまった。結局明治10年には西南戦争が勃発してしまうように、明治維新を主導した薩摩藩は、明治の始めから急速に政府への反発を強めていった。

こういう情勢であったから、明治政府が島津久光の慰撫を重大な課題と認識したのも無理はない。どうにか久光には体制側についてもらって、鹿児島の士族の不満を抑えて欲しい、せめて公然と反旗を翻すことはやめてほしい、と思っていただろう。だが一方で、久光の守旧的意見については一切聞く耳を持たなかった。久光の意見を聞く気はなかったが、体制内には取り込みたいと思っていたわけで、明治政府の姿勢も微妙なところであった。

よって、久光を慰撫する手段は、いきおい「象徴的」なものとならざるを得なかった。例えば、「従二位」の宣下といったものである。その究極が、明治5年の天皇の鹿児島行幸であった。この西国行幸は、もちろん久光の慰撫のためだけに計画されたものではなく、廃藩置県後の人心の収攬を目的にして各地を巡るものであったが、その大きな目的は鹿児島の久光をなだめるということにあった。尊皇の志の篤い敬神家で知られた久光である。天皇が直接声を掛ければ、頑固な久光とても態度を和らげるに違いないと。

そんな中で傲然と行われたのが、守旧的意見を述べる「14箇条の建白書」の奉呈であった。その建白書の添え書きに言うには、「明治2年に上京して出仕した折には意見を申し上げる機会もなく、何らの御下問もいただけなかったので虚しく沈黙するしかなかった。このたび天顔を拝するにあたり”因循固陋”の意見ではあるが、この先このような機会もないと思われるので突然の奉呈を許して欲しい」。そして、「現在の政体では国運は日に日に衰弱し、万古不易の皇統も共和政治の悪弊に陥り、終には洋夷の属国となってしまう」と。

この文面を見れば分かる通り、久光としては、天皇は自分の意見を分かってくれるかもしれないと思っていた。明治政府とは対立していたにしても、久光は敬神家であることは間違いなく、天皇の権威は強く認めていた。ただ、その権威ある天皇をほしいままにして、傀儡化している明治政府を非難していたのである。

明治5年6月23日の、明治天皇による可愛・吾平・高屋の神代三陵の遙拝は、このような状況を背景にして理解する必要がある。久光の慰撫が、明治政府にとっての対鹿児島政策の最大の課題だった時期のことだ。この神代三陵の遙拝が、政治的な意味を帯びていないとしたら、そっちの方がおかしいだろう。

久光の国を、天皇が肇国の聖地と認めて恭しく遙拝すること。これが久光への慰撫でなくてなんだというのか。そしてこれは鹿児島の士族へ向けたメッセージでもあったはずだ。例えば現代においてすら、鹿児島出身の俳優やタレントであるというだけで鹿児島の人には身近に感じられ応援される場合が多い。天皇家のルーツが鹿児島にあると公式に表明することは、鹿児島の士族に天皇家を身近に感じて欲しいという意味合いがあっただろう。

こうしたことは史料上のどこにも書いていないことで、状況証拠に基づいた私の推測であるが、「久光と士族の慰撫」、それが、まだ公式には指定されてもいない神代三陵を天皇が遙拝したことの政治的意味であったと確信する。

だが、天皇が自主的にこのような政治的パフォーマンスをするわけがない。もちろん、この遙拝を演出した人物がいるのである。

鹿児島で神代三陵を遙拝するよう天皇に建白した人物、それが薩摩藩出身の国学者であった田中頼庸(よりつね)であった。

(つづく)

【参考文献】
『島津久光公実記 巻七』1910年、島津公爵家編輯所 編
西郷隆盛―西南戦争への道』1992年、猪飼 隆明

2017年9月24日日曜日

神代三陵が等閑視されていた理由——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その5)

明治天皇の鹿児島行幸(山内多聞 画)
前回に見たように、鹿児島に神代三陵があるという説は幕末までにかなり確立していた。

ただし、それらが鹿児島の中のどこにあるか、というと異説がいろいろとあり、幕末の時点でも決定打と呼べる説はなかった。何しろこの頃は、古代の考証といっても考古学の考え方がほとんど援用されていない。地名や言い伝え、口碑流伝(こうひるでん)によって推測するのがこの頃の考証である。しかもそういった伝承を批判検証することなくそのまま信じ、その上考古学的遺物も調べないのだから、決定打がなかったのは当たり前である。

とはいっても、それは他の歴代天皇陵においても全く同じだった。「文久の修陵」によって神武天皇陵を急ごしらえで新たに築造したように、本来どこにあるのかという調査研究よりも、天皇陵をコンプリートするという政治的目的の方が優先され、根拠はあやふやなままでどんどん天皇陵を治定していったのが幕末であった。

そしてこの姿勢は維新後も変わらない。歴代天皇陵の確定に目途がついてくると、明治4年(1871年)には、全国の府・藩・県に対して后妃・皇子・皇女らの陵墓があるか回答を求める太政官布告が出された。天皇陵だけでなく、広く皇族の陵墓までもその対象として指定し、全国に皇室讃仰の拠点を配置していこうとしたのである。こうなると、鹿児島に神代三陵が治定されたのは当然のことのようにも思える。

だがこの明治4年の時点において、神代三陵については政府は全く指定するつもりがなかったようなのだ。行政文書などを見ても、神代三陵については特に触れられていない。祭祀すべき天皇陵は、あくまでも神武天皇陵に始まるのである。

ではなぜ明治政府は神代三陵を無視していたのだろうか? 「万世一系」の証拠となる天皇陵だけでなく、それに附属する皇族たちの陵墓まで確定させようとしていたのに、それよりもずっと重要に見えるその父祖たちの山陵を等閑視していたというのはどうしてか。

それを考えるために、改めて「神代三陵」とは何かを理解しておきたい。神代三代、あるいは日向三代(ひむかさんだい)とは、天孫降臨から神武天皇に至るまでの三代の神々を指す。具体的には、天孫ニニギ、その子ホオリ、そしてその子のウガヤフキアエズである。ウガヤフキアエズの子が神武天皇になる。

ここで少し、この神代三代の神話を簡単に振り返ってみよう(※)。

高天原(たかまがはら)を治めていたアマテラスは、下界がオオクニヌシらの善政によって栄えているのを見て国を譲ってもらえるよう交渉し承認される。アマテラスは孫のニニギを派遣し、ニニギが降り立ったのが日向の高千穂の嶽であった。これが天孫降臨である。

ニニギはやがてコノハナサクヤ姫という美女と出会い結婚する。しかしたった一夜のちぎりでコノハナサクヤ姫が身籠ったため、ニニギは「自分の子ではないのではないか」と疑った。そこで姫は出口のない部屋を作ってそこに籠もり、火をつけて燃えさかる産屋の中で出産。本当のニニギの子どもなら無事に生まれるだろうというのだ。

燃えさかる部屋の中で果たして無事に生まれたのが三兄弟で、その末っ子がホオリであった。ホオリは「山幸彦」として知られる神である。ホオリは、兄のホデリ(海幸彦)の釣り針を海でなくしたことで兄弟喧嘩になって、釣り針探しに海神の宮まで行き、海神の娘であるトヨタマ姫と結婚した。

トヨタマ姫はその出産にあたり、鵜の羽で屋根を葺いた小屋を作って、自分の出産を決して見ないようにホオリに申しつけておいたが、ホオリはその約束を破って出産を覗いてしまう。そこには、出産にのたうつ鮫(ワニ/龍)がいた。トヨタマ姫の正体はワニだったのである。正体を見られたトヨタマ姫は海神の下へと帰ったが、ここで生まれたのがウガヤフキアエズである。鵜の羽で屋根を葺き終わらない間に生まれたからそういう変わった名をつけた。

ウガヤフキアエズはトヨタマ姫の妹のタマヨリ姫を妻に迎え、そこで誕生したのが神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)である。

このように神代三代とは、天界から降りてきたニニギ、海神の宮に行ったホオリ、ワニから生まれたウガヤフキアエズと、いずれも神話的なエピソードに彩られている。

そこで読者諸氏に問いたいのだが、この神代三代の神々は、実在したと思うだろうか?

現代の人で、彼らが実在したと思う人はいないだろう。もしかしたら、こうした神話の元になった古代の英雄的人物はいたのかもしれない。きっと、古代社会のなんらかの習俗や、伝統や、歴史を反映して生まれた神話なのだろうとは思う。しかし、ニニギやホオリ、ウガヤフキアエズといった人物そのものが実在したとは、現代の常識に照らして到底考えられない。

しかし、神代三陵を政府が指定するということは、少なくともこうした神々の実在を公認することを意味した。なぜなら、実在しない人物の墓があるわけがないのだから。明治4年の段階で政府が神代三陵の指定をする気がなかったのは、おそらくこのおとぎ話的な神話を公認することに二の足を踏んだからではないかと思う。

というのは、明治政府の山陵政策にとって最も重要だったのは、これまで見てきたように神武天皇による「肇国の神話」を現実化し、「万世一系」の皇統を確たるものにすることだった。何しろ、既に王政復古の大号令において、「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」とされたくらいである。今の世に「神武創業」を再現することが、明治政府の理想の一つだった。

しかしそういう神武天皇ですら、本当は神話の彼方にあった。

記紀に記された神武天皇の事績を見ると、神代三代に比べるとおとぎ話的な要素は少ないが、やはり神話的人物であることは間違いない。そういう神武天皇の存在を無理矢理に歴史的事実へと変換するための装置が神武天皇陵の創出だったわけで、神代三陵のようなおとぎ話的なものまで公認してしまうと、公認の信頼性が下がって「神武天皇も実在していないのでは?」という疑問を惹起する可能性があったのである。

江戸時代や明治の人たちは、記紀の神話を素朴に事実だと信じ込んでいたのではないか? と思う人もいるかもしれない。神話と歴史の区別もつかなかったのではないかと。

でもそれは大きな間違いだ。既に江戸の中期から、記紀神話は歴史的事実ではないという考えはどんどん広まっていった。例えば、新井白石が享保元年(1716年)に記した『古史通』では神代の神怪談を人事の比喩的修辞と見なしたし、山片蟠桃が享和2年(1802年)に著した『夢の代』では、神代説話を後世の作為の産物であるとする見解を表明している。しかも山片蟠桃は、神代説話だけでなく神武天皇から仲哀天皇の部分までをも客観的事実の記録としては認めがたいとした。これは、大正時代になって津田左右吉が行った画期的な記紀研究と結論においてほぼ一致しているのである。

実は、江戸時代は合理主義の精神が花開いた時代でもあって、記紀神話を素朴に事実だと信じるようなことは、この時代の知識人にはなかったと考えられる。

記紀神話に記された年代から600年を減じなければ外国の史書と年代が合わないことを主張した藤貞幹の『衝口発』(天明元年(1781年))に対し、本居宣長は反発してこの説を葬り去ろうとした。これは「日の神論争」と呼ばれる上田秋成と宣長の激しい論争の発端になったのであるが、宣長がムキになった事実をもってしても、逆にこうした説が受け入れられる常識があったことが窺えるのである。それどころか、宣長の門人である伴信友でさえも『日本書紀』の紀年が辛酉革命の説によって作為されたものであることを論証しており(「日本紀年歴考」)、記紀神話が事実そのものであると信じることは、記紀を学問の根本に置く国学者にとってすら難しかったと思われるのである。

そもそも、国学の淵源の一つであった水戸学の根本『大日本史』においても、その始まりは神武天皇であり、それ以前の神話は歴史としては扱われていない。天皇の正統性を主張する『大日本史』においてすらこうだから、記紀神話が現実のものとは見なされていなかったのは明白である。

だから、明治政府が「神武創業」を厳然たる事実だと強弁しようとした時、知識人からの反論を予想しなかったとは考えられない。いくら社会が大混乱のさなかにあった時であるとはいえ、表立っては反論しにくいように歩みを進めていったに違いないのである。

そんな中で、神代三代の荒唐無稽な神話をも事実であると認めることは、あまりにも軽率なことであった。神代三陵を公認することは、明治政府の正統性と理念の象徴である「神武創業」が子どもっぽい嘘の上に成り立っていることを白日の下に晒す可能性があったのだ。

ところが、明治5年になって、明治政府はほとんど唐突に「神代三陵を始め(中略)等未詳の御箇所」を早く確定しなくてはならないと言い出すのである(明治5年8月29日、教部省伺)。

これはどうしてか。

ここから先は、史料上では明らかではない。だから、ここからは私の推測が入ってくる。そして、ここからが本題である。

明治5年に政府がいきなり神代三陵を確定させようとした事情は、きっと明治天皇の鹿児島行幸にある、と私は思う。

廃藩置県後の明治5年の5月、明治天皇は東京から西に赴き、大阪・京都・下関・長崎・熊本の各地を巡幸して、遂に6月22日には鹿児島に着いた。鹿児島に天皇を迎えるということは鹿児島の歴史にとって空前のことであった。

そして翌23日の午前6時、天皇は行在所の庭にしつらえられた拝所で、もっとありえないことを行った。可愛・高屋・吾平の神代三陵を、遙拝(遠くから拝むこと)して、御幣物を奉納したのである。この時点では、まだ神代三陵は政府によって確定していなかったにも関わらずだ。

このことがあったから、明治政府は神代三陵の確定を急いだのは間違いない。天皇が遙拝したその山陵が、本当は別のところにあったということになれば大変なことになる。明治5年6月23日に天皇が神代三陵を遙拝した時点で、神代三陵の確定は既定路線となってしまった。

ではなぜ明治天皇は、まだどこにあるか確定してもいない神代三陵を遙拝したのだろうか? 江戸時代から育ってきていた合理的精神と対決してまで、神代三陵を実在のものとして扱ったのはどうしてなのだろうか?

(つづく)

※記紀神話の要約は、基本的に『古事記』に依った。

【参考文献】
『日本書紀 上 日本古典文学大系67』1967年、坂元太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋 校注
『古事記』1963年、倉野憲司 校注
『鹿児島県史 第3巻』1940年、鹿児島県 編
*冒頭画像は、『鹿児島市史 第1巻』(1969年、鹿児島市史編さん委員会)から引用したもので、明治神宮外苑絵画館に展示されているもの。

2017年9月19日火曜日

薩摩藩の天皇陵への関心——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その4)

『神代山陵考』白尾国柱 著
これまで見てきたように、天皇陵は、幕末の頃は尊皇攘夷の象徴として、また維新後は「万世一系」の歴史的証拠として時の政権に利用されたのであった。

では、鹿児島にとって、天皇陵とはどんな存在であったのだろう。やはり薩摩藩も、天皇陵を政治的に利用しようと目論んでいたのだろうか?

最初に答えを言ってしまうと、風雲急を告げる幕末の頃、薩摩藩にとっては天皇陵など眼中になかった。

例えば、宇都宮藩が尊皇を形にするものとして歴代天皇陵の修陵を建白した文久2年、薩摩藩がどのような動きをしていたのかというと、ずっと過激な尊皇の挙に出ていた。文久2年の3月に、島津久光は一千もの軍勢を連れて京都に入京したのである。

本来、京都は幕府の軍事統制下にあり、諸侯は幕府の許可なくして絶対に立ち入ることはできなかった。それどころか久光は、この大部隊を率いて藩の境を越えることすら許可を得ていない。幕府に対する反逆ともとられかねない入京だ。彼が軍勢を連れていたのは、もちろん京都を攻撃するためではなくて、兵士たちを天皇に献げるためであった。

そういう久光に孝明天皇は滞京を許し、浪士の沈静化に当たるよう勅諚(ちょくじょう)を下した。そして久光の軍勢800人はそのまま大原重徳(しげとみ)勅使の護衛となり、国政に対する要求(「三事策」)を幕府へと突きつけるため江戸へ向け出発するのである。

このときまで、天皇の権威はある意味では架空のものであった。いくら日本を治める正統な君主であるといっても、政権の基盤となる実力がなかったからだ。朝廷の石高は僅か3万石であって、天領(幕府の直轄領)400万石とは比べるべくもなかった。あくまでも、理論上だけの権威に留まっていたのである。

しかしこのとき、天皇の勅使は、800人の精鋭部隊に護衛され、江戸城の中を我が物顔に闊歩することができた。もはや天皇の権威は架空のものではなかった。現実の軍事力に裏打ちされ、幕府にも打倒しがたいものへと変質していた。久光は、軍事力を天皇に献上することで最も過激な尊皇を表現し、天皇の権力を現実化したのである。

そして島津久光らが構想した「三事策」はある程度実現され、その最も象徴的な側面として参勤交代制度の廃止をもたらした。こうして江戸で十分な政治的成果を収めた久光は、悠々と江戸を去ったのである。その帰路で彼は生麦事件に遭遇するが、そのまま彼はまた京都へ向かい、孝明天皇に拝謁した。

官位もなく、藩主の後見人に過ぎない島津久光が天皇に謁見することを許され、また太刀を賜ったことは、久光がもはや江戸幕府の秩序から飛びだし、天皇と直接に君臣関係を結んだことを意味していた。これを契機として、同年の冬だけでも、長州、土佐、鳥取、安芸、久留米、佐賀、阿波といった各藩主が幕府の許可なしに上洛していくことになるのである。

このように文久2年という年は、生麦事件だけでなく、薩摩にとって転回点となった年でもあった。ともかく、この頃の薩摩藩というものは、幕政改革を成し遂げるための政治的な動きに忙しかったから、象徴的な意味しか持たない天皇陵については、ほとんど何も顧慮することがなかったと言ってよい。悠長な天皇陵の修補などやっている場合ではないのだ。もちろんその後についても、現実の政治・軍事の問題を処理することに忙しく、天皇陵について何かを主導したといった形跡は見られないのである。

しかし、薩摩藩がそれ以前も天皇陵に無関心だったかというと、そうでもない。

天皇陵問題に取り組んだ薩摩藩主といえば、島津重豪(しげひで)(1745〜1833)がいる。重豪は島津斉彬の曾祖父にあたり、薩摩藩が雄藩として飛躍する基礎をつくった人物であるが、この重豪は白尾国柱という国学者に命じて神代三陵—すなわち「可愛(えの)山陵」「吾平(あいら)山上陵」「高屋(たかや)山上陵」の調査をさせているのである(『神代三陵取調書』文化11年(1814年))。

白尾国柱は、既にその命を受ける前の寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を書いていた。これは後になって、神代三陵の位置の治定に大きな影響を及ぼした本である。重豪がどういうわけで白尾に神代三陵の再調査を命じたのか、その意図は正確にはわからない。

だがこの時期は陵墓に対する社会的関心が高まってきた時期である。その上、山陵研究の嚆矢である松下見林『前王廟陵記』においては、早くも神代三陵は全て薩摩・大隅国にあると考証されていた。一方で、直近に出た蒲生君平の『山陵志』(1808年)において、神代三陵については全く考証もなく、全て日向国にあるものとされているのである。

というのは、記紀には神代三陵は全て日向国にあると書いているので、素直に考えれば神代三陵のありかは日向国、つまり今の宮崎県にあたるのである。『山陵志』は現在の歴代天皇陵の治定にも大きな影響を及ぼした、山陵研究の最重要文献であるから、重豪としてはここで神代三陵がちゃんとした調査もなく日向国に治定されてしまうことに不満があったのかもしれない。

しかしその後しばらく、薩摩藩では神代三陵についての政治的動きは見られない。それでも、神代三陵が鹿児島(薩摩・大隅)にあるという説は既成事実化していった。例えば、「文久の修陵」にも参加した陵墓研究家である平塚瓢斉(津久見清影)が著した『聖蹟図志』(安政元年(1854年))においても、神代三陵は全て鹿児島に治定されている。

一方、日向国に神代三陵があるという主張もされなかったわけではない。現・西都市に生まれた児玉実満という国学者は、『笠狭大略記』やそれを絵図化した「日向国神代絵図」を著し、天孫が降臨した「笠狭之碕」は西都原にあったという説を唱えた。児玉は西都原周辺に残る古墳が、古代の天皇陵であると考えたのである。

しかし、児玉実満は国学者とはいえ一介の好事家であり、薩摩藩による公的な神代三陵の所在主張の前では物の数ではなかった。実際に、宮崎に神代三陵があるという主張は、各種の山陵研究においてほとんど顧みられた形跡がない。

このように維新前においても、神代三陵は全て鹿児島にあるという説はほぼ定説化していたのである。だから、神代三陵の治定においては薩摩閥の政治力が背景にあったという説は、額面通りに受け取るわけにはいかない。神代三陵の鹿児島所在説は、真面目な考証もなく政治力によってゴリ押しされたのではないのだ。それどころか、山陵研究の当初から松下見林によって鹿児島所在説が唱えられており、鹿児島の人だけが言っていたわけでもない。

ところが、さらに調べていくと明治7年の政府の決定——神代三陵は全て鹿児島にあるという決定の背景には、やはり政治的な思惑が見え隠れしているのである。

(つづく)

※冒頭画像は、早稲田大学古典籍総合データベースよりお借りしました。

【参考文献】
儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年、ジョン・ブリーン

2017年8月25日金曜日

神話は現実化していった——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その3)

可愛山陵
天皇家が葬られているところ——山陵は、幕府にとってどのような存在だったのだろうか。そして、山陵と尊皇は、どのように結びついていたのだろうか。

山陵にいち早く注目した為政者は、徳川光圀である。光圀は、元禄7年(1694年)に神武天皇陵の修補を幕府に提案している。その意図するところは、神武天皇からの歴代天皇の陵墓を敬うことで、孝道を示すことであった。

言うまでもなく光圀は、『大日本史』の編纂によって後に「水戸学」と呼ばれることになる政治思想学を確立した人物であり、水戸学は幕末の尊皇攘夷の理論的支柱として明治維新の原動力の一つとなった。その光圀が、神武天皇陵に着目したのは象徴的なことである。ただし、光圀の提案は幕府により却下された。

光圀の提案とほぼ時を同じくして、元禄9年(1696年)、江戸時代の陵墓研究において最も注目される本が執筆された。松下見林の『前王廟陵記』である。『前王廟陵記』は歴代天皇陵について網羅的にその所在を考証した本だ。

これは一部の権力者のためだけにまとめられたものではなく、広く一般へ販売された。元禄時代のことであるから、出版といっても日本全国の人が読んだというと大げさになるが、江戸、大坂(大阪)、京都の版元による共同販売であり決してその読者は少なくなかったと思われる。そもそも、このテーマで商業的に出版ができるというだけでも、山陵への関心の高まりが窺い知れよう(※)。

光圀の提案や『前王廟陵記』による刺激を受けたのか、この頃幕府側でも山陵の調査が活発になったようで、地元の伝承を中心とした古墳の研究や修補(標札の設置など)が行われている。

元禄以降は、陵墓に対する関心は一層強くなり、例えば並河永『大和志』(1736年)、竹口英斉『陵墓志』(1794年)といった、陵墓に関する調査・記録が次々まとめられた。その中でも最も影響力が大きかったのが蒲生君平の『山陵志』(1808年)で、『山陵志』に刺激されて著された陵墓研究本は数多く、一々それを挙げるのが煩わしいほどである。

このように、元禄時代から幕末にかけて山陵の研究がどんどん盛んになっていったのは、ある研究での考証が別の研究で批判されて…という議論の応酬の結果という側面ももちろあっただろうが、それよりも重要な背景は、やはり尊皇攘夷の高まりである。

「尊皇」については、それこそ蒲生君平の『山陵志』がこのような言葉で始まっている。
 「古の帝王、其の祖宗の祀を奉りて、仁孝の誠を致すなり(原文漢文)」
歴代天皇の墓を敬い、祭祀を行うことは、「仁孝の誠」だというのである。この頃に山陵研究が盛り上がったのは、考古学的な関心などではなく、これまで忘れられていた歴代天皇の墓所を再興することで禁裏(天皇家)への忠誠を形にするという意図によるものだった。

そして、今から考えると意外な感じがするが、山陵は「攘夷」とも分かちがたく結びついていた。「文久の修陵」で創出された神武天皇陵では、それこそこの山陵の「築造」の僅か1ヶ月後、熱心な攘夷論者であった孝明天皇の勅使が派遣されて「攘夷祈願祭」が行われている。山陵は、攘夷を祈願される存在だったのである。

実は、神武天皇陵はそれまでの陵墓研究での考証を半ば無視したような形で強引に築造されたという経緯がある。その理由は、未だ神武天皇陵の位置が明らかにならない段階で神武天皇陵での「攘夷祈願祭」実施が決定されてしまい、築造を急がなければならなかったという事情があったことから、造成しやすい土地を指定したからではないか、と推測されている。神武天皇陵が本当にどこにあったのか、という考証よりも、政治的な日程が優先されたのだ。

なぜ神武天皇陵が政治的に利用されたのかというと、自ら東征して橿原で即位したという神武天皇の「武」のイメージが山陵に重ねられたからだ。この「攘夷祈願祭」によって、神武天皇陵はその後「攘夷」の精神的支柱としての役割をも担うことになった。

ところが、江戸幕府の権威低下が行き着くところまでいって、大政奉還、王政復古となると、この山陵の政治的役割もまた変わって行かざるを得なかった。

明治新政府が、攘夷ではなく開国を志向したからである。

しかし、山陵は「尊皇攘夷」のシンボルでなくなっても、より重大な政治的役割が付与されるようになった。というのは、明治政府の正統性は、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」に支えられていたからだ。この「歴史的事実」を証明するものが、歴代天皇陵であった。

明治維新は、理念の上では決してクーデターではなかった。革命ですらなかった。元来あるべき正統な君主の元に実権が返っただけのことであった。では、天皇家が「正統な君主」であるという根拠は何だったのかというと、それは神の子孫である神武天皇の「建国の大業」であり、神武天皇から続く「万世一系」の無窮なる皇統なのだ。

とはいっても、神武天皇なる人物が本当にいたのだろうか? 現代の研究では、そのモデルがいたとしても、神武天皇そのものが存在したとは考えられていない。遙かな古代の話であり、当時としても伝説の域を出なかったであろう。そもそも、明治政府の方針として、迷信の打破といったようなことが声高に叫ばれていた。その明治政府は、歴史的に全く証拠がない神武天皇を正統性の源泉としていたのである。

そこで重要になってきたのが、神武天皇の実在性を証する神武天皇陵であった。そして、神武天皇から連綿と続く、歴代天皇の山陵であった。こうした「物証」がある以上、「万世一系」の皇統は現実であるとされたのだ。

こうして、神話は現実化していった。

そして、現実化の装置として、山陵が機能するようになった。

もちろん、現実化の装置は、山陵だけではなかった。まず挙げなければならないのは伊勢神宮だろう。伊勢神宮は皇室の崇敬する神社として、歴史的にも特別扱いを受けていたが、今のように皇室との緊密な関係が築かれ、国家の宗廟にされたのは明治政府による。

伊勢神宮がこのような変貌を遂げた原因はいろいろあるが、その一つに、伊勢神宮には三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」が祀られているということがある。これこそ、天皇が神話の時代から続いているという事実を証するものの一つだった。

それ以外にも、神話を現実化する装置がたくさん考案された。それは、ある意味では「聖地の誘致合戦」とも言うべきものだった。

例えば、伊勢神宮に次ぐものとしての待遇を求めてある程度成功した熱田神宮。ここも三種の神器の一つである「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がご神体となっている。それから、神武天皇の即位宮である橿原神宮も新たに創建された。橿原神宮は神武天皇の宮跡を奉斎するもので、国家によって大急ぎで創られ、神社の中でも破格の扱いを受けた。神武天皇の実在性を人々に信じ込ませるために必要なものだったからだろう。

そんな中で、山陵の「神話を現実化」する装置としての特殊性は、歴代天皇のものが全て揃いうるという「万世一系」の証明になる点であった。神武天皇を初めとして、それに続く天皇の山陵が各地が散らばっていること、それ自体が、皇室が遙か古代から日本を統治してきたという動かぬ証拠であった。

ところが明治の始めにおいて、未だ治定されていない天皇陵もあった。明治政府は、皇室の陵墓を全てコンプリートすることで、万世一系の神話の完全なる現実化を図り、皇室の祭祀体系を完成させようとした。

こうして、幕末には武家から公家への贈り物、尊皇の志を形にするという意味だった修陵事業が、明治時代になって全く別の意味を持つようになった。それは、山陵を全国に配置して皇室のモニュメント(記念碑)とするということだ。皇室のモニュメントというより、明治政府のモニュメントと言った方がいいかもしれない。政府は、全国に散らばる山陵を介して、人々と皇室との関係を新たに樹立しようとしたのである。

早くも明治4年(1871年)には、全国の府・藩・県に対して后妃・皇子・皇女らの陵墓があるか回答を求める太政官布告が出された。だがこれにはかばかしい回答が得られなかったため、明治8年(1875年)には、当時陵墓に関する事務を司っていた教部省が、陵墓の調査のために職員を全国に出張させるようになった。国家は遂に、日本全国に「万世一系」の皇室のモニュメントを配置するという事業に乗り出した。

鹿児島の3ヶ所が、可愛(えの)山陵、吾平(あいら)山上陵、高屋(たかや)山上陵であると指定されたのが明治7年(1874年)。明治7年は、こういう動向の時代だったのである。

(つづく)

※『前王廟陵記』の出版年代については、早稲田大学の蔵書によると奥付に「元禄十一年戊寅歳三月彫成、安永七戊戌歳五月補正」とあります。これは元禄11年(1698年)に初版が出て、安永7年(1778年)に改版が出たということだと思いますが、和書に詳しくないのでもしかしたら間違っているかもしれません。


【参考文献】
天皇の近代史』2000年、外池 昇
天皇陵とは何か』1997年、茂木 雅博
神都物語:伊勢神宮の近現代史』2015年、ジョン・ブリーン

2017年8月21日月曜日

「文久の修陵」と「尊皇の競争」——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その2)

明治政府は明治7年に、鹿児島の3ヶ所を、それぞれ可愛(えの)山陵吾平(あいら)山上陵高屋(たかや)山上陵であると指定した。明治政府は、鹿児島に神々の墓があると決定したのである。

どうして、このような決定がなされたのか、それを考えるには、少し遠回りするようだが、そもそも「明治政府にとって、天皇陵とは何だったのか」を振り返る必要がある。

これまた一見簡単そうでいで、なかなかに難しいテーマである。一般の人には、かなり馴染みがない問題提起だろう。そもそも「天皇陵」とは何か。

素朴に表現すれば、「天皇陵」とは「天皇の墓とされる古墳」のことだ。

例えば、「世界三大墳墓」の一つとされることもある「仁徳天皇陵」、すなわち大山古墳が天皇陵の一つだ。大山古墳は、大阪府堺市にある威風堂々とした巨大な古墳であり、いかにも古代の権力者の墓という感じがする。

また、奈良県の橿原市にある神武天皇陵。こちらは周囲100mほどで巨大ではないが、こんもりとした林になっており、小さいながら聖域の風格がある。

でも、こうした「天皇陵」は、昔からこのような場所だったのだろうか? 築造当初から?

何となく、学校教育で習ってきた「古墳」のイメージからすると、これらは考古学的な存在として、悠久の時を超えてきた印象がある。

だが、それは間違いだ。実際には、これらの「天皇陵」が今の形に整えられたのは、せいぜい幕末くらいの時からなのだ。

また、今「仁徳天皇陵」とされている古墳は、学術的にはおそらく仁徳天皇の墓ではないだろうと考えられている。そもそも、どの天皇がどこに葬られたのか、というのは、『日本書紀』や『延喜式』に記載があるものの、古墳そのものに被葬者が分かる史料が出土したことは一度もない。大山古墳は仁徳天皇陵だ、と宮内庁が決めたからそうなっているだけで、その根拠は実はあやふやである。

神武天皇陵に至っては、幕末に伝承地を造成して指定したものであり、その指定の過程について考古学的に問題があるのは当然として、非常に政治的なプロセスにより決定されたものであるから、ほとんど「創出」といってもよいと思われる。

こうした、「天皇陵」の創出の契機となったのが、いわゆる「文久の修陵」と呼ばれる事業である。

「文久の修陵」とは、宇都宮藩の建白によって文久2年から行われた、大規模な山陵の修繕事業である。修繕とはいえ、この時点ではどの古墳がどの天皇に対応する墓なのか、ということも決まっていなかったところが多く、まずはそうした治定から行う必要があった。この「文久の修陵」によって、それまでただのこんもりとした山でしかなかったところが、いきなり「兆域(聖域)」として区画され、柵が設けられて立ち入り禁止になり、鳥居が立てられて祭祀の対象となっていくのである。

なにしろそれまでは、天皇陵かもしれない、と伝承されていたところですら、草刈り場になったり、柴取り山になったりして農民に利用されていたし、それどころか年貢地に指定されて耕作されていたところも多いのである。「文久の修陵」では、そうした「生産の場」としての機能を停止させ、あくまで畏れ多い、みだりに立ち入ることができない「聖地」に変えていった。

特に「文久の修陵」で創出された天皇陵の最たるものといえば、神武天皇陵であろう。予算的にも、神武天皇陵の造成は破格の扱いを受けた。というよりも、「文久の修陵」の要は、神武天皇陵の創出にあったといっても過言ではない。

「文久の修陵」を企画し、また実施したのは、宇都宮藩の筆頭家老だった戸田忠至(ただゆき)なのであるが、戸田は何を考えてこのような事業を行ったのであろうか。数々の天皇陵を治定して聖域に変え、神武天皇陵を創出した理由は、なんだったのだろうか。

その理由を探るには、またしても少し遠回りをする必要がある。というのは、当時の時代背景を見てみなくてはならないからだ。

文久年間は、1861〜1864年。「文久の修陵」が行われた文久2年(1862年)といえば、我々鹿児島の人間にとっては「生麦事件」の年であり、非常に攘夷の熱が高まった時代でもある。そして、同じ年には、皇女和宮と第14代将軍徳川家茂の婚礼も行われている。これは「公武合体」の象徴として行われたもので、天皇家と将軍家が姻戚関係を持つという空前絶後の政策であった。そして翌年には、将軍家茂は初めて上洛して天皇に拝謁している。

つまりこの時代は、「尊皇攘夷」が具体化した頃なのである。特に、家茂の上洛は、それまでも形式的には天皇は将軍の上にあったが、実際の上で、将軍の権威が天皇のそれよりも低下したことを示すエポックメイキングなイベントであった。これを境に、政治の中心は江戸ではなく京都になり、列藩たちは京都を舞台に活躍していくことになるのである。

「尊皇」とは、別の面から言えば江戸幕府の権威低下であった。

口では「異国船打払令」などといいながら、実際には外国からの圧力に対して何ら有効な施策を打ち出すことができない江戸幕府は、その財政的な行き詰まりもあって、急速に権威が低下していった。替わってにわかに権威が高まっていったのが天皇(禁裏)である。

その理由を簡単に述べるのは難しいが、それまでも形式的には将軍家の上にあったということで、儒教倫理において至上権を付託されているのが天皇であると考えられたことと、より重要なこととして、天皇家が遙か古代から続く正統な日本の統治者であるという「歴史的事実」があった。

いずれにしても、天皇は、何かをやったことによって権威を高めたのではなかった。その権威の源泉は、「行動」よりも「血統」だった。この頃の禁裏は、まだ何もしていないのにも関わらず、自然と権威が高まっていったのだ。それは、幕府の威信低下によって生じた政治的空白を、何かで埋め合わせようとする列藩の思惑もあっただろうが、それよりもこの権威上昇を演出したのは、他ならぬ幕府自身であった。

というのは、幕府自身の権威が不可避的に低下する中で、失われていく求心力を保つためには、禁裏の権威を借りるしかなかったのである。いわば、幕府は禁裏の権威に寄生して命脈を保とうとした。それを象徴しているのが、文久2年の皇女和宮と徳川家茂の婚礼だ。皇女を嫁に迎えることで、将軍家の権威を維持しようとしたのである。それが、「公武合体」の意味するところであった。

しかし、幕府が禁裏の権威を借りようとしたように、次期政権を窺っていた雄藩たちも、同様に禁裏の権威を借りようとした。権威だけは将軍家を凌駕していながら、禁裏自身は次期政権を担う仕組みはなかったため(まだ何もしていないのだから当然だ)、禁裏をその手中に収めるものが、徳川幕府に替わる政体を形づくれるという「倒幕のルール」が出来上がっていった。

こうして、「尊皇の競争」というべきものが生まれたのである。

この状況を理解するには、ちょっと卑近な例すぎる嫌いはあるが、企業の社長交代劇などに置き換えて考えてみればよい。

業績が悪化して、求心力が低下してしまった社長がいたとしよう。既に大幹部たちの人心も離れており、もはや自らの能力で挽回することは難しい。そこで、社長は創業者一族の権威に頼ることを考える。例えば、創業者の子孫を重役に迎えるといったようなことで求心力を保とうとする。

しかしこの策は、次期社長の椅子を狙う重役たちにも使える手なのである。創業者の子孫を担ぎ出して、現社長を追い出すことだって可能なのだ。そのため両者ともに重要となるのが、創業者一族との良好な関係を形成するということだ。担ぎ出すにしても、自分らのいうことを聞いてくださいというワケにはいかないから、心からあなたが必要なんですという姿勢を見せる必要があるだろう。

そのためにはあなたなら何をするだろうか。創業者一族へ贈り物をする、というような露骨なやり方はうまくいかない。それは、ある程度は必要かもしれないが、お金ですむものはお金で覆ってしまうのが常識だからである。だから有効なのは、例えば「創業者のやった偉大な仕事を振り返る」「創業者への恩を思い出す」というようなことを形にすることなのだ。要するに、創業者一族への「忠誠心」を目に見えるようにするということが、最も求められるのである。

もうおわかりの通り、このたとえ話における「社長」を「将軍(幕府)」に、「創業者一族」を「天皇(禁裏)」に置き換えれば、この幕末の状況をある程度理解できると思う。全国の雄藩のみならず、幕府においても、禁裏への「忠誠心」がホンモノであるという主張合戦が行われた。これが、「尊皇の競争」である。「私の方が本当の”尊皇”なんですよ。だから私の味方になって下さい」というわけだ。そしてこのために、より一層禁裏の権威が高まっていくという権威のインフレーションが起きた。

そして、この「尊皇の競争」こそ、「文久の修陵」が行われた背景なのである。

「文久の修陵」を企画した宇都宮藩は、「譜代」でありながら坂下門外の変によって幕府から睨まれ、不利な立場にあった。「修陵」は、幕府への忠誠を示しながら、「尊王」を形にするものとして、藩の立場を逆転させるものとして企画されたのだ。宇都宮藩は、古墳群が存在する畿内からは遠いところにあるので、企画の段階では山陵がどういうものであるか実見したこともなく、 まさにこの事業は机上の空論、政治的計算から生まれたものだった。

とはいえ、「修陵」が「尊皇」を形にするもの、といっても、ちょっとすぐには納得できないかもしれない。 なぜ「修陵」が藩の命運を逆転させる策として浮上したのか。そのためには、そもそも「山陵」とはいかなる存在であるかを理解する必要がある。

(つづく)

【参考文献】
天皇の近代史』2000年、外池 昇
日本政治思想史―十七~十九世紀』2010年、渡辺 浩

2017年8月20日日曜日

レヴィ=ストロースが鹿児島に来て——なぜ鹿児島には神代三陵が全てあるのか?(その1)

高屋山上陵
鹿児島空港から車で15分くらい行ったところに、「高屋山上陵」という史跡がある。鬱蒼とした杉山の、長い長い階段を登ったところにそれはある。

これは、ホオリのミコト(火遠理命)、いわゆる山幸彦の墓とされるものだ。山幸彦は、初代天皇である神武天皇の父親に当たる。そういう、神話的古代に遡る墓が、ここ鹿児島にあるのである。

1986年に、人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは鹿児島を訪れ、天孫降臨からの神話を辿る旅をした(今、資料で確認できないが、鹿児島の民俗学者下野敏見氏が案内されていたように記憶する)。

そしてレヴィ=ストロースは「九州では(中略)、まったく神話的な雰囲気の中に浸ってしまいます。(中略)もっとも心を打つ日本の魅力の一つは、神話も歴史もごく身近なものだという感じがすることなのです」と述べた(※)。

これは、我々鹿児島の人間にとって鼻が高くなるようなコメントだ。世界的な人類学者が、鹿児島の地を、神話と現代が交錯するような土地だ、と彼流の詩的表現をしたのだから。

実際、鹿児島にはたくさんの神話が残っている。私はかつて「南薩と神話」という続きものの記事を書いたことがある。

【参考】
このように、鹿児島には南薩だけに限っても神話に因んだところがたくさんあるくらいで、レヴィ=ストロースが「神話的な雰囲気に浸ってしまう」と感じたのも無理はない。

特に、天孫降臨から神武天皇に至るまでの神代三代(じんだいさんだい)、すなわち、アマテラスの孫のニニギ、ニニギの子のホオリ、そしてその子のウガヤフキアエズ、という三代は、みな鹿児島で活躍したことになっていて、実際、国によって認められたこの三代の墓(陵=みささぎ、という)は、みな鹿児島にあるのである。

具体的には、第1にニニギの陵である薩摩川内市の可愛(えの)山陵、一般的には新田神社があるところとして知られる小高い山だ。第2に、ウガヤフキアエズの陵である鹿屋市にある吾平(あいら)山上陵。そして第3に、最初に例を出した霧島市の高屋(たかや)山上陵。(ちなみに、「山上陵」は正式には「やまのえのみささぎ」と読むが、「さんじょうりょう」と読んでもよい。)

これら三山陵は、宮内庁書陵部が管轄していて、実際に可愛山陵には宮内庁の小さな事務所がある。

そして、このように宮内庁が公認する「神」の墓があるのは、鹿児島だけなのである。他の県にも、歴代天皇の山陵というものはたくさん存在しているが、ただ鹿児島だけが神々の山陵を有している。

私は、これは一体どうしてなのだろうと何年も疑問に思っていた。

神々の墓がある、と主張するのは、鹿児島だけではない。特に宮崎県は、西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)を有し、ここにはニニギの墓とされる巨大古墳がある。実際、その古墳は宮内庁によっても陵墓参考地(被葬者の確定はできないが皇族の墓と指定されているところ)とされている。それだけでなく、鹿児島県が有している三山陵全てについて、実はそれらは宮崎県にある別のところにあたるのでは? という異説が存在する。

こうした異説が存在しながらも、なぜ宮内庁は鹿児島の山陵のみを公認したのだろうか。昔から、この公認の背景には、明治時代の薩摩閥の政治力がある、と言われてきたが、実際にはどのようなプロセスで決定されたのだろうか。

このようなことは、歴史の悪戯として片付けられる類のことではある。非常に些末なことと人はいうかもしれない。しかし私にとっては、この謎は明治の宗教行政史の核心に迫るテーマの一つなのだ。

これについて、少し考えてみたい。

(つづく)

クロード・レヴィ=ストロース「世界の中の日本文化」、『世界の中の日本 Ⅰ:日本研究のパラダイム―日本学と日本研究―』所収、国際日本文化研究センター, 1989.2.10.

2017年7月25日火曜日

美しく剪定されたイヌマキが一本残らず…

南薩の柑橘農家にとって、防風垣は単なる風除け以上のものである。

柑橘の篤農家は、圃場の外郭に沿って植えられ、美しく剪定されたイヌマキの防風垣を誇りとしていて、柑橘の樹そのものと同じくらい、イヌマキに愛情を注いでいる人も多い。

入念に管理されたイヌマキは、まるでフランス式庭園の一部であるかのように優雅であって、機能と美の両方を兼ね備えている。

そんなイヌマキが、今、危機に瀕している。

この夏、イヌマキを食害するキオビエダシャクという害虫が大発生しているのである。

笠沙町の赤生木(あこうぎ)というところ、私の柑橘園の近くに、まさにフランス式庭園的な立派な曲線美のイヌマキで囲われたポンカン園があって、どなたの園なのかは知らないが、いつもその管理の見事さに頭が下がる思いがしていた。

ところがこの夏、この立派なイヌマキたちが、文字通り1本残らず、突如としてキオビエダシャクに食い尽くされて、枯れてしまったのである。一体全体、何が起こったのか私にも分からない。枯れてしまうほど食害を受けているイヌマキはたくさんあるが、一つの圃場全体が一気に枯れてしまうなんて、ちょっと普通ではない。

園主の方の落胆を思うと、ゾッとするくらいである。このようなイヌマキの防風垣をつくり上げるには、どんなに早くても10年はかかるし、おそらくこの園は30年以上かけて立派に育て上げ、 管理に管理を重ねてきたはずだ。それが、一夜…というには大げさにしても、ほんの数日で全部枯れてしまったのだから。

農薬を散布しなかった園主が悪いと言われればそれまでかもしれないが、いろいろ事情があったのだろう。例えば入院とか、慶事弔事とか。まさか数日圃場を離れただけで、イヌマキが潰滅するとは思わない。

それくらい、今年のキオビエダシャクは強烈である。少なくとも私がこちらに引っ越してきてからはダントツにすごい年である。

元々、このキオビエダシャクという蛾、南西諸島以南に棲息していたものだそうだ。それが温暖化によるものと思われるが、どんどん生息域が北上し、いまでは南九州にまで定着してしまった。

南西諸島でも、キオビエダシャクが発生すると天敵らしい天敵もないため、島のイヌマキが絶滅するまで大発生したらしい。そして、島にイヌマキがなくなってしまうとキオビエダシャクもいなくなり、被害が忘れられた頃にまた人がイヌマキを植えだし…というサイクルがあったのではないかと推測されている。天敵がいないことを考えると、恐らくは南西諸島にとっても外来種であり、台湾や東南アジアが原産地であると思われる。

このように強烈な害虫であるが、今のところ防除の手立ては発生箇所に農薬を散布するという対処療法的な手段しかない。それに、いくらイヌマキの大害虫とはいっても、せいぜい庭木が枯れる程度のことと思われているのか、行政も学界も、本腰を入れて動く気配はない。せいぜい、防除のための薬剤購入に補助を出すくらいである。世間ではヒアリという強烈な毒を持つ外来のアリが話題になっているが、キオビエダシャクは具体的な被害が既にたくさん出ているにも関わらず、ほとんどマトモに取り上げられていないようだ。

こういう時こそ、応用昆虫学の出番だ、と私は思う。「応用昆虫学」というのは、要するに害虫について学ぶ学問である。最近は、「害中学」みたいなもっと直截的な名前でも呼ばれる。

この応用昆虫学の知見に基づいて、ただ農薬を散布してやっつけようというだけでなく、大規模に効果的に防除する方法を確立すべきだ。なにより、キオビエダシャクの原産国での生態や天敵を調べて、この昆虫をより理解するということから始めなくてはいけない。

であるにも関わらず、応用昆虫学みたいな地味な研究分野は、等閑に付されてきたきらいがある。地元の鹿児島大学ではどうだろう。研究室に人が集まらない、なんてことがあるのではないかと心配だ。こういう分野の就職先は、県の農業普及員とか、農大の先生とかがメインになるだろうが、どちらも定員を削られてきた職域ではないか。学生が敬遠しがちになるのも当然だ。

学問は、社会の役に立つためにあるのではないが、イザという時には社会を救う「蜘蛛の糸」になりうる。その糸が天上から降りてこなければ、南薩のイヌマキは絶滅してしまうかもしれないのである。

【参考】
南西諸島のキオビエダシャク」森林総合研究所九州支所 定期刊行物「九州の森と林業」第8号 平成元年、吉田 成章

2017年7月15日土曜日

清水磨崖仏群と齋藤彦松

南九州市の川辺町、清水(きよみず)というところに日本でも有数の大規模な磨崖仏群がある。渓流に沿った断崖に、平安から明治に至るまでの様々な石刻が並んでいる。「清水磨崖仏群」という。

昭和33年(1958年)の7月10日、ここを一人の男が訪れた。

男は大学院に入ったばかり。研究テーマにしていた仏教史跡の調査が目的だった。男を案内したのは、地元川辺町の教育委員会にいた樺山 寛。そして鹿児島県の文化財専門委員の築地健吉が同行した。3人は車に乗り込み、渓流に沿う切り立った岩の下の道へ入っていった。そこに、磨崖彫刻が現れる。

「もう百メートルも自動車が徐行しているのに、磨崖彫刻群はつきそうにもない。これは量的にみても容易なものではない。半ば好奇心にかられた、私の心は、学術的な緊張へと変化していた」

これが、清水磨崖仏群と、それを終生の研究課題とした一人の男、齋藤彦松との出会いだった。

齋藤は、苦学・晩学の人であった。

佛教大学仏教学部仏教学科に入学したのが36歳の時。大正7年(1918年)に新潟に生まれ、高等小学校卒業後、新潟や京都で働き、また日本陸軍へも徴兵されながら、独学で勉学に励んだ末の大学入学であった。寺院に生まれたわけでもないのに、なぜか幼少の頃より仏教の思想と信仰に興味を抱いていた齋藤は、大学入学以前に仏教経典の古活字や石塔類の研究を既に始めていたという。

そして大学卒業の年に大谷大学大学院修士課程(仏教文化)に進学。これが清水磨崖仏群と出会う昭和33年のことである。齋藤は40歳になっていた。

齋藤と清水磨崖仏群との出会いは、どことなく運命的なものを感じる。

佛教大学での卒業論文は、「日本仏教磨崖仏の研究」。この論文執筆の調査のため、齋藤は昭和31年(1956年)7月に鹿児島へ現地調査に出かけていた。目的の一つは、鹿児島市の谷山、下福元にある如意山清泉寺趾の磨崖仏の調査だ。このため、五位野の願生寺というところの本堂に一晩泊まったのだが、齋藤が「この辺に自然生え抜きの岩に仏像梵字等を彫りつけたところはありませんか」とそこの住職に尋ねたのだ。

住職は「まだ見てはいませんが、この奥に当たる川辺町にそのようなところがあると聞いている」と返事した。

その時は次の調査日程が詰まっていたから後ろ髪を引かれながら鹿児島を離れたが、齋藤はずっとそのことが気になっていた。

ちょうどこの頃、齋藤は、真言宗の高僧である児玉雪玄を初めとして、各地の梵字の専門家に梵字の指導も受け始めた。梵字は、齋藤が生涯を掛けて追い続けるテーマになる。

進んだ大谷大学大学院での指導教官は、五来 重(ごらい・しげる)。五来は、柳田國男から刺激をうけた民俗学の手法を仏教に応用し、「仏教民俗学」を打ち立てる。齋藤を指導していた頃は、五来自身も博士論文の準備中。それまでつまらぬものと切り捨てられていた路傍の石仏などに注目し、民衆がどのように仏教を受容してきたのかをまとめつつあった。

磨崖仏の研究、梵字の勉強、そして五来から受けた民俗学的手法の指導。そうしたものが形になり始めていたとき、清水磨崖仏群と邂逅したのである。このように、齋藤にはこの史跡の価値を見いだす知的な素地が準備されていた。

齋藤が見いだすまで、清水磨崖仏群は地元でも貴重なものとは思われていなかった。磨崖仏がある所は、昔から「清水の岩屋」と呼ばれる景勝の地であったが、それはあくまで桜の名所としてのことだった。磨崖仏は平家の残党が世を儚んで刻んだものと考えられ、桜の景観に「一段の情趣を添える」程度のものであった。

しかし齋藤は、この史跡を「恐らく梵字の生地インドにも之以上のものは存在しないのではなかろうか」と、すぐさま高く評価する。

刻まれた梵字や仏塔の数もさることながら、清水磨崖仏群には造営の年代が記された作例が存在することも重要で、これによって九州各地の磨崖資料の年代をはかる物差しとなる可能性もあった。

一方で、磨崖仏は既に風化が進みつつあり早急に保存の手を打つ必要があった。齋藤は同行の文化財専門委員の築地に、県として保存するよう進言したようである。早くもこの翌年、昭和34年に清水磨崖仏群は鹿児島県の指定文化財となるが、これに際しても県では独自の調査をした形跡がなく、指定にあたっての調査報告書(築地が執筆)を見ても齋藤の研究の引用の形となっている。それだけ、齋藤の言が重んじられた証拠だ。

だが、齋藤は学界では評価されなかった。

そもそも仏教史学の王道は、教学史である。教学史とは、卑近な言葉で言えば、エライ人が何を言ったか、どういう思想を抱いていたのかを研究するものだ。「親鸞の思想」とか、「道元の哲学」とか。

一方で齋藤が研究したのは、名もなき人々による仏塔とか、梵字とか、そういうものだった。いわば、エライ人が言ったことを、民衆がどのように理解し、信仰し、表現したのか、それを路傍の石から考えた。しかし民衆による仏教の受容などということは、仏教史学の中では全くどうでもいいことと見なされていた。

だから齋藤の仕事は、「学問とは認めない」「好事家の仕事」と一蹴された。

齋藤自身、旧来の象牙の塔的な仏教史学に違和感があったのだろう。五来の指導を仰いだのも、こういう「正統的」な仏教史学にかなり批判的だった五来を慕ってのことだったのかもしれない。五来自身が、民衆による仏教の受容史を構築する際、仏教史学とも民俗学とも軋轢を抱えていたようである。

齋藤は、昭和38年(1963年)に博士課程を満了。大学に残って研究者の道に進むよう勧められたが、経済的な理由から断念したという。以後、京都上京区で印刷業を営む傍ら、「京都梵字資料研究所」を設立して、在野の研究者として生涯を通した。

「研究所」といっても、立派な学舎があるわけでもない。齋藤は商売の合間に、各地に残る梵字資料(古書および金石文梵字)を地道に収集し、日本に残る梵字の世界を少しずつ明らかにしていった。

北海道から沖縄まで、日本全国に梵字の残っていないところはないという。にも関わらず、齋藤以前には梵字について体系的な研究を行ったものはいなかった。古来より「悉曇学(しったんがく。悉曇文字=梵字)」というものはあったが、これはサンスクリットの音韻を扱うもので、梵字が日本人にどのように受容されたのか、日本人にとって梵字とは何だったのか、ということは全く閑却されていた。

齋藤は、日本全国をフィールドワークする中で、(1)字体・書体・字画など論理的で合理的な梵字を追求し、(2)梵字が体現する信仰の内容を明らかにする、ことを目的とする「齋藤梵字学」を打ち立てていく。齋藤は、梵字を追求する唯一無二の研究者になっていた。

最晩年の平成5年(1993年)からは、改めて清水磨崖仏群の研究に集中。この研究は、清水磨崖仏研究の集大成として『清水磨崖仏塔梵字群の研究』(川辺町教育委員会編)としてまとめられたが、平成9年2月15日、齋藤は刊行を待たずして帰らぬ人となった。

齋藤彦松梵字資料室がある「清流の杜」
齋藤は研究生活のスタートに出会った清水磨崖仏群と川辺町に、大変な愛情と情熱を注ぎ続けた。齋藤自身「自分の研究は清水磨崖仏群からはじまり、その研究はライフワークである」と語っていた。まさに、齋藤の研究は、清水磨崖仏群にはじまり、清水磨崖仏群で完結した。

齋藤が収集した資料や約5000冊の蔵書は川辺町に寄贈され、川辺町は「齋藤彦松梵字資料室」を設立。清水磨崖仏群を見下ろす岩屋公園キャンプ場に、一見禅寺風の立派な建物を建ててここに資料を収蔵した。その建物は「清流の杜」と名付けられた研修施設にもなっている。

ところで、死から2年後の平成11年、齋藤梵字学を理解しようとしていた小林義孝がこの資料室を訪れる。小林は、齋藤が残した大量の研究資料=「Saito Print」と呼ばれる一群の資料の収集と解読を目指し、齋藤の学統を継ぐ「Saito Print研究会」を組織していた。そして小林はこの調査の際、「齋藤彦松梵字資料室」から齋藤による『悉曇要軌』の草稿を発見する(※)。

これは、齋藤が晩年に梵字を学習するためのテキストとして、また日本の梵字の特質を示すために著したもので、Saito Print研究会ではこの草稿をまとめて平成16年(2004年)に摂津泉文庫から刊行した。『悉曇要軌』については未読であるが、小林によれば齋藤の梵字研究の到達点といえるそうである。「齋藤彦松梵字資料室」からの最大の成果といえるだろう。

ところで余談だが、昭和33年、初めて清水磨崖仏を訪れたその次の日、7月11日には、齋藤は坊津へ調査に行った。そこでもう一つの「発見」をすることになる。齋藤が「薩摩塔」と名付けた異形の仏塔と出会ったのだ。「薩摩塔」についての詳細は措くが、清水磨崖仏と同様、ここから「薩摩塔」研究がスタートする。齋藤が見いだしたもう一つの石造遺物であった。

もし、齋藤が川辺まで調査に来なかったらどうなっていただろう? もしかしたら、今でも川辺の磨崖仏は、桜の景観に「情趣を添える」ものとして朽ちるに任せていたのかもしれない。もちろん、齋藤が重要性を訴えなくても、結局は誰かが見つけてくれたのかもしれない。でも、何かの「価値を見いだす」ことは、何かを創るのと同じくらい、創造的な行為だと私は思う。そうなっている保証は何処にもない。

いや、それどころか、今でも日本全国には、一人の齋藤彦松との出会いを待っている、忘れられた歴史の遺物がたくさん眠っているはずだ。誰かに価値を認められなくては、ただ朽ちてゆく、本当は重要な遺物が…。地元の大浦町にだってあるかもしれない。皆が、つまらぬものと思い込んでいる何かが、実は歴史を理解するための重要な1ピースだった、ということはよくあるのだ。

ちなみに、来年2018年は、齋藤が清水磨崖仏群と薩摩塔を「発見」してからちょうど50年目の節目の年に当たる。川辺町は合併して南九州市となり、齋藤彦松梵字資料室も最近はやや閑却されているように見受けられる。資料はミュージアム知覧と分置され、体系的な展示・保管機能はもはやない。この記念の年に、改めて齋藤彦松という人を思い出しても悪くはないだろう。せっかくだから「薩摩塔」の研究とも絡めて、シンポジウムでも開いたらどうか。

「価値を見いだす」ほどでないにしても、ただ「思い出す」ことだって、きっと創造的行為なのだ。


※ この調査については、「仏教学と歴史考古学の狭間--齋藤彦松氏の梵字研究とSaito Print」という論文にまとめられているが未読。本論文に齋藤のライフヒストリーや業績の概要等がまとめられ、齋藤の研究の全貌が明らかになっているという。

※※ 文中敬称略といたしました。

【参考文献】
「斎藤梵字学の位置—斎藤彦松著『悉曇要軌』の到達点—」2010年、小林義孝 ←齋藤彦松の年譜その他、本稿の多くをこの論文に負いました。
『清水磨崖仏群』1964年、川辺町教育委員会
「清水佛教磨崖彫刻群の研究」1965年、齋藤彦松
『川辺町郷土誌』1953年、川辺町役場
『清水磨崖仏塔梵字群の研究』1997年、川辺町教育委員会編
『鹿児島県文化財調査報告書 第11集』1964年、鹿児島県教育委員会
『薩摩塔の時空~異形の石塔をさぐる~』2012年、井形進
※このほか、南九州市役所の上村純一さんのお話を参考にしました。

2017年7月12日水曜日

イシイ、大浦町に2度目の孵卵場設立

昨年、南さつま市が大浦町への企業誘致に成功した。

株式会社イシイの新しい孵卵場(鶏の卵を孵してヒナにする工場)が、笠沙高校跡地にできたのである。しかもこの孵卵場、全国有数の規模らしく、九州では一番大きい工場だそうである。

どうしてこのような立派な工場が、僻地も僻地である我が大浦町に建ったのか、正直よくわからない。薩摩川内市も誘致に積極的であったと聞く。どうみてもあちらの方が流通に都合がよさそうなのに、わざわざ交通の便が悪いこちらに建てたのはなんでだろう。

でも元々、大浦町にはイシイの孵卵場があるから、その縁があってこそのことであるのは間違いない。系列の養鶏場もたくさんあるわけで。

企業誘致といっても、結局は「縁」である。全国どこででもできる事業であっても、実際に全国津々浦々の条件を比較考量して立地を決めるなんてことはなくて、縁があるようなところを中心に候補地を絞っていくものだ。

では、今回の企業誘致の縁になった、大浦町に元々あったイシイの孵卵場というのは、どうして設立されたものなんだろうか?


イシイが大浦町に孵卵場を設立したのは、昭和54年のことである。工場用地は、大浦町の平原(ひらばる)の、デンプン工場跡地だったところらしい。

大浦町では、その前年に県の補助を受けて、ブロイラー用種鶏団地造成事業を行っている(「種鶏(しゅけい)」というのは、ヒナにする卵を産ませるための鶏のこと)。この事業に参加したのは町内の7人。

この事業は大浦町と隣町の笠沙町の共同でやっていて、大浦町が3万羽、笠沙町が3万羽の計6万羽の飼養が計画されていた。

もちろんこの事業はイシイの孵卵場が建設されることを見越したもので、平原の孵卵場が落成するまでの期間は、種卵(ヒナを孵す卵)は大分県にあったイシイの工場までわざわざ出荷されていた。どうやら大浦町の養鶏は、当初からイシイ(当時は石井養鶏農協)と共に始まったようである。

では、なぜこの時期に大浦町に孵卵場が建設されたのかというと、一つにはその頃特産品として確立しつつあったポンカンが遠因となっている。ポンカン畑は山を切り開いて造成したから肥料を人力で運ぶのに難儀していた。鶏糞堆肥なら軽いからポンカンの肥料に最適だ、ということで養鶏が検討されたんだそうだ。

そしてもっと直接的な理由は、鹿児島県経済連が昭和50年に「知覧食鶏処理場」を建設したことだ。この知覧の食肉処理場へ鶏を出荷する農家向けに、ヒナの需要が高まったという背景があったようである。元々南薩は養鶏の盛んな地域で、鹿児島県内でも姶良、川内と並ぶ三大養鶏地域と言われていたそうだが、それまではヒナは地域で自給していなかったのかもしれない。

しかし、このヒナ需要に応えるために、どうしてわざわざ徳島のイシイを誘致したのかというと、そこがよく分からない。イシイ側で鹿児島進出を狙っていたのか、それとも大浦町の方でイシイに声を掛けたのか。ちなみに当時も鹿児島県には孵卵場自体はたくさんあったので、県内の企業・組合でヒナ需要をまかなうことも不可能ではなかったのではないかと思う。

さらにちょっとした疑問を言うと、視野を広げて当時の養鶏業界の趨勢を見てみると、この時期は必ずしも養鶏の生産をどんどん拡大していこうという時期でもなかったということがある。昭和40年代には鹿児島県では大規模かつ系列的な養鶏業界が成立し、ブロイラー(食肉)では全国1位、鶏卵でも全国2位の生産量を誇るようになった。

しかし急激な大規模化の結果として生産過剰となり、特に鶏卵については昭和45年に鶏卵価格の大暴落が起こった。それまで「卵は物価の優等生」などと呼ばれ、キロあたり二百円弱(年間平均)で推移していたところ、この年の夏に120円台まで暴落してしまったのである。当時の採算ラインというのがキロあたり160円というから、出荷すればするほど赤字になるという異常事態。この異常な相場は冬には是正され、逆に最高価格280円をたたき出すが、こうした価格の乱高下の背景として生産過剰があることを重く見た農林省(当時)は、昭和47年に「養鶏においては大規模な増産はさせない」という趣旨の3局長通達(経済局長、農政局長、畜産局長)を出した。

つまり、大浦町がブロイラー用種鶏団地をつくろうとしていた時、既に農水省は養鶏産業は飽和状態になっていたと見ていて、生産調整を行っていたのである。にも関わらず、実際には経済連は知覧に食肉処理場を新設させたわけだし、大浦町も種鶏団地を作ったわけだ。50年代に入ると生産調整も落ち着き増産基調になっていたんだろうか。このあたりがよくわからないところである。

このように、いざ調べてみると、せいぜい40年くらい前のことでもよくわからないことが多い。これに関しては、本気で調べたら関係者はまだたくさん残っているので分かるだろうが、あと30年もすると、なぜイシイの旧孵卵場が大浦町に建てられたのか本当に謎になってしまうかもしれない。

些末なこととはいえ、別段隠す必要もない、身近な歴史すらこうである。政治的に微妙なことなんかは、すぐに事実が分からなくなってしまう。

歴史というのは、必死で残していかないと、忘れられ、書き換えられていくものだ。

「本当の歴史」などというものはどこにもないが、今の不穏な政治経済情勢を見ているとウソがまかり通る世の中になるんじゃないかと心配になってくる。


【参考文献】
『鹿児島県養鶏史』1985年、鹿児島県養鶏史刊行委員会
『広報おおうら 第98号、第105号、第112号』

2017年6月11日日曜日

「六地蔵」というおまんじゅう

南さつま市加世田の、旧加世田駅の目の前に清月堂という和洋菓子の店がある。ここは「川口プリン」というプリンが有名で、店内にも「プリン美味しかった!」というようなサイン色紙がたくさん飾られている。このプリン、もちろんオススメである。

が、この店にはもう一つの隠れたオススメ商品があるので紹介したい。

それは、「六地蔵」というお菓子。「こしあんに、黒ゴマ・クルミ・ピーナッツ・レーズンを入れて焼き上げた香ばしいおまんじゅう」(店頭の説明より)である。

こしあんを使っているから和菓子に分類されるのだろうが、こしあんも重くなく、割合にサクサクっとしていて、洋風の焼き菓子にも近いようなおまんじゅうである。緑茶だけでなくコーヒーにもよく合う。

清月堂ではこれがたったの95円で売られていて、手土産にはもってこいだ。

「六地蔵」というのは、もちろん加世田の史跡「六地蔵塔」にちなんでいる。

【参考】六地蔵塔の思想

おまんじゅうの表面にあしらわれた図像は、多分竹田神社の鳥居(左側)と、「六地蔵」という文字(右側)。こういう、ちゃんと地元の名勝旧跡にちなんでデザイン・命名されたお菓子というのを好ましいと思うのは私だけではないはずだ。

この「六地蔵」、お店の人に伺ってみたら、少なくとも50年以上前からあるという。清月堂にはずっと昔に作られたままデザインが変わっていない包み紙があるが(電話番号の局番が一桁しかない)、この包み紙には「加世田銘菓 六地蔵」の文字とともに、史跡の「六地蔵塔」の写真が大きくプリントされている。おまんじゅう「六地蔵」は、数十年前はこの店の看板商品だったようである。

今でも、売れない商品というわけではなくて、固定客による根強い人気がある商品なのだと思う。だが、これに注目している人は、ほとんどいないみたいである。確かに、一昔前の地味な商品ではある。でも味の方は、先述の通り結構モダンで、時代遅れのおまんじゅうではない。「かるかん」なんかより、よっぽど若い人が好みそうである。

私は、こういう「忘れられた価値」を再発見することは、とても大事なことなんじゃないかと思っている。新商品を生みだすということはいいことだと思うし、古いものにしがみつくばかりでは面白くない。でも、新しい何かを始められなくても、「忘れられていた価値」を再発見するだけで、世の中をちょっと面白くすることはできると思う。

鹿児島県特産品協会は、毎年「かごしまの新特産品コンクール」というのを開催していて、これは鹿児島の最先端の特産品が一堂に会するものである。これはこれでいいとして、私は、これにあわせて「かごしまの特産品コンクール」をやったらいいと思っている。誰も注目していないもので、その価値に売っている本人すら気づいていないような商品を、勝手に表彰するコンクールだ(売っている本人にすら価値に気づいていないので、当然販売者からは応募されない)。これは審査員(というか推薦人)の目が試されるコンクールだ。新しいものを評価するのは容易であるが、旧いものを評価する(というより見つけてくる)のは、実は大変に難しいのである。

こういうコンクールでもない限り、「忘れられた価値」が再発見されないままに消えてゆくものはたくさんあるんじゃないだろうか。そういうものが人知れず世界から消えていくこと。それはかなりの損失なんじゃないかと私は思う。少なくとも、「六地蔵」がなくなってしまったら加世田にとって損失だろう。

ところで蛇足だが、この「六地蔵」には一つの謎がある。山梨の富沢町にある同名の「清月堂」という和菓子屋に、やはり同名の「六地蔵」というおまんじゅうがあって、しかもその内容は、「クルミ、ゴマ、干しブドウを練り込んだ風味豊かな餡を、六地蔵と富士山を纏った生地で包みこんだお饅頭です」となっていて瓜二つなのである!

【参考】山梨の清風堂の紹介ページ(南部町商工会)

ここまで似ていると、他人のそら似というわけではないと思う。師弟関係があったのか、それともかつては「六地蔵」がメジャーなお菓子だったのか。そのあたりの事情を、機会があればぜひ伺ってみたいものである。

2017年5月25日木曜日

仏間を板張りにしたら大成功!

昨年の「納屋リノベーション」に続いて、今年も小さいながらリノベーション(というよりリフォーム)を行ったのでご報告。

ごく普通の畳張りだった仏間を、板張りにしたのである。

でもこれは「ごく普通のフローリング」ではないというのが、今回のポイント。

そのことは後で書くとして、元々ここを板張りにしようと思ったのは、この部屋に本棚を置こうと思ったから。畳の上に本棚を置くと畳も痛むし、本棚も不安定になるし、そもそもこの部屋の畳張りがなんだかボヨンボヨンしていて根太(床板を支える横木)に不安があった。

リノベーション前の仏間
せっかくの畳のお部屋なのでもったいない気もしたが(実際、子どもは畳の部屋がいいと言っていた)、昨年の納屋リノベーションが想像の遙か上をいくステキさで仕上がったので、その時の工務店さん(craftaさん)にまたお願いした次第である。

最初は、ごく普通のフローリングにしてもらう予定でいた。でも確認のため畳を剥いで見てみると、薄汚れてはいるがなかなかしっかりした板張りになっている。これを廃棄してしまうのはもったいないと思い、工務店さんに「この板張りをそのまま活かして張り替えることってできませんかね…?」とお願いしてみた。

普通にフローリングにするのであれば6畳が10万円くらいで出来るそうだが、板を「生かし取り」(壊すのではなくまた使うことを前提に解体すること)するには手間がかかるし、いびつな板材を床にまた貼るのにも手間が掛かって、当然費用も増えるという。

正直、あまりお金に余裕はないが、同世代は新築の家を建てたり、マンションを購入しちゃったりしている時期である。子どもたちも「うちはボロだからいやだなあ!」「○○ちゃんのうちは新しくていいなあ!」とことあるごとに言ってくる。新築したりマンションを購入するよりは断然安いんだから、まいっか…、ということで手間の掛かる工事をお願いした。

実際床板を剥いでみると、松の板であることがわかった。床板としては高級な部類だと思う。

ちなみに根太はやっぱり貧弱で、極太の大引き(床下を支える大きな木材)が入ってるわりにはなぜか根太は折れそうなくらい細かった。どおりで床がボヨンボヨンしていたハズである。

そして、生かし取りした床材を水洗いしてもらうと予想通りなかなか見栄えもいい。釘穴がボカスカ空いているのはいいとしても、ゆがみも大きかった上、(予想してなかったが)板の厚みが相当バラバラだったので、正直なところ「これちゃんと貼れるんだろうか…!?」と心配になったし、工務店さんや大工さんも、この個性が強すぎる板材たちを目の前にして動揺しているように見受けられた。

だが実際に床が完成してみると、予想以上に素晴らしい出来になった!

確かに、ゆがみが大きい板材だったので、隙間はかなりある。段差も最大で5mmくらいある。釘穴を埋めるためのパテ跡も、気になる人には気になるかもしれない。

でも百年経った松の板の風情はまた格別でもある! 非常に表情が豊かで、語りかけてくるような床になった。

またしても想像の遙か上をいく出来映えである。ただキレイとか居心地がいいとかではなくて、創造力を刺激するような部屋になったと思う。床が変わるだけでこんなにも空間が変わってしまうのかとビックリした。

こうして素晴らしい床ができたのは、もともとの板材がよかったのもあるが、工務店さんと大工さんの技術と心意気のお陰である。隙間や段差が目立たないようにかなり工夫してくれたし、1000以上あったであろう釘穴を一つひとつパテで埋めてくれたし、見積もりにはなかったはずだがオイルも塗ってくれた。かなり労力(と頭)を使う作業で、新品フローリングにするのに比べ何倍も大変だったと思う。改めて工務店さんに感謝である。

ところで今年、うちが建ってからちょうど100年経ったらしい。100周年に生まれ変わったこの仏間をこれからどう活用していくか、とっても楽しみである。

2017年5月10日水曜日

「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」

鹿児島の皆さんは、「KagoshimaniaX(カゴシマニアックス)」をご存じだろうか?(画像はイメージキャラクター)

「鹿児島をアツくユルく紹介するWEBメディア」、まあ平たく言えば、気軽なノリの地元情報ブログである。

実は、このカゴシマニアックスが、密かに「砂の祭典」とコラボしていたのでここにお知らせしたい(後日、砂の祭典公式HPにも出てくると思います)。

せっかく「砂の祭典」に遠方から来てもらっても、祭典会場を見るだけでとんぼ返りしてしまっては地元民としては少し寂しい。せっかくだからついでにどこかに寄ってもらうとか、別にお金を使わなくてもいいからドライブだけでもして帰ってもらいたいと思う。そもそも、「砂の祭典」はそういう地域への波及効果を目的としてやっているイベントだ。

だから、「砂の祭典」の公式ホームページで南さつまのオススメスポットなんかを紹介していってもよかったのだが、それだとどうも面白味がない。「南さつま海道八景」なんか確かに素晴らしいけれども、そういう定番スポットをいつも通り宣伝するのではなくて、若い人に向けて違った案内ができないか?

そういうことから、鹿児島のナウなヤングに絶大な支持を誇るカゴシマニアックスとコラボして、「カゴシマニアックス流の南さつま巡り」をやってもらおうと思ったのである。

勘違いして欲しくないのは、コラボと言っても、「ここを紹介してくださいね」というような、いわゆる提灯記事は一本もないということだ。カゴシマニアックスの管理人・僕氏こと中園さんの案内は私が買って出たが、私がオススメするスポットをゴリ押ししたわけでもない。それどころか天気にも嫌われて、案内したいところに全然案内できなかった…。基本的には、その場のノリと先方の希望に沿ってユルく案内したわけである。

それでできた記事がこちら!
南さつま市加世田の幻のパン「田中ベーカリー」を知っているか
世界の大迫勇也が愛する味!南さつま市の「萬来ラーメン」
京うどんの名店、南さつま市「彌蔵」で伝説のマンガに出会ったハナシ。
南さつま市「くじらの眠る丘」で伝統の味「こめ飴」に出会った。
南さつま市に伝わる「内山田七不思議」に挑戦してきた結果・・・!
フリーダムな南さつま市の物産販売所「にいななまる」には家づくりに重要なアレが売ってた。
南さつま市加世田のオシャレカフェ「伊太利亜」でパニーニとカツカレーを食べたハナシ。
※加世田の和洋菓子屋「清月堂」の記事もあったはずだかなぜか見つけられず。
この中で一番感心したのは最初の「田中ベーカリー」の記事。私の知ってる範囲では反響も一番大きかった。加世田育ちの人には、なんとも懐かしく、いろんな思い出を引き出すキーになるようなパンが「田中ベーカリー」だと思うが、別に私から何も言ってないのにそれを最初に書いたのにはビックリした。中園さん、ぼーっとしているように見えて(笑)そういう嗅覚が鋭い。実は、私も「田中ベーカリー」についてはブログで紹介しようと思っていたので先を越された「しまった!」感もある。

そして、 一応の趣旨は「地域への波及効果」なのにも関わらず、「砂の祭典」のついでには誰も行かなそうな「内山田七不思議」を巡ったのも、よかった。ヤラセっぽくなくていい。というより、ヤラセは一切なしである。ちなみに、この「七不思議」の取材は体力も時間も使って一番大変だったと思う…。

また、カゴシマニアックスのFacebookページでは、過去記事の中から南さつま関係のものを改めてピックアップしてくださった(「万世ストア」の鳥刺しは必見)。
南さつま市加世田「万世ストア」の鳥刺しは他とはちょと違う激ウマ。加世田までそれだけの目的で走っていいレベル。
南さつま市の阿久根商店のうどんそば自販機でちょっとマニアックなうどんそばが食えるよ。
南さつま市加世田のPico、からあげが有名なんだけど・・・アレが棒状になってた。
さらに、もちろん実際に会場にも行って、現場レポもしてくださった!
砂像!おしゃれカフェ!花火!「吹上浜砂の祭典」はインスタグラマーのパラダイスだ! 

「砂の祭典」のメインイベント期間はGW中だが、5月中は「セカンドステージ」として入場料が半額で入れる。花火や飲食ブースはないが、砂像の鑑賞という意味ではこっちの方がゆっくり見られるし、土日にはいろんな催しもある。ただ、一日ずっと「砂の祭典」の会場で遊ぶというわけにもいかないので(会場内に飲食があまりない)、ぜひカゴシマニアックスの記事を参考に、南さつま周遊の小旅行を楽しんでいただきたい。

※ちなみに、5月27-28日に行われる「HANAVILLA MARKET-ハナビラ マーケット-」には「南薩の田舎暮らし」も出店します。同日はビーチステージという音楽イベントもありますよ!

【参考】セカンドステージ イベント情報(砂の祭典公式ホームページ)

「砂の祭典」とのコラボ記事に限らず、カゴシマニアックスの発信を見ていて思うのは、「街は自分なりに楽しんだらいい」ということだ。もちろん観光パンフ片手に巡るのでもいい。路地裏ばかりうろついてみるのもいい。史跡を訪ねる、グルメを楽しむ、ドライブする、なんでも楽しければいいのである。

「南さつまに来たらぜひここに行ったらいいよ!」という場所も地元民的にはある。例えば大浦の「亀ヶ丘」。「亀ヶ丘」に来てもらったら地元民的には嬉しい。でも来てくれた人が、南さつまの魅力を自分なりに発見してくれたらもっと嬉しい。カゴシマニアックスとのコラボは、そのための一つのケーススタディかもしれない。

2017年5月4日木曜日

「砂の祭典」の根幹

「2017吹上浜 砂の祭典」が始まった。

会場に林立する素晴らしい砂像の数々。特に海外からの招待作家さんの砂像は精巧で芸術性も高く、祭典終了後に壊すのが惜しいほどだ。

「砂の祭典」はこの砂像が主役なのは間違いない。それだけでも十分楽しめる。

…そうではあるが、せっかくこのイベントに来るのなら、ちょっと足を伸ばして吹上浜の汀(みぎわ)まで行ってみてほしい。会場から県立吹上浜海浜公園に移動して、公園入り口から徒歩10分くらいで海岸まで行ける。

そこには見渡す限り砂浜が続いていて、海の彼方からは波濤の音が響いている。

「砂の祭典」は、元々、この「吹上浜」を活かそうというイベントだった。30年前、アメリカのサンディエゴで勃興しつつあったサンドアートの噂を聞いて、吹上浜の砂をアメリカに送って見てもらい、「きめが細かくサンドアートに適している」と太鼓判をもらったことからこのイベントが始まった。

始まりは、吹上浜の砂だった。

実際、吹上浜まで行って砂に触れてみると分かる。非常にきめが細かくて、パウダースノーのような美しい砂である。この前子どもたちを連れて行ったら、「アナと雪の女王」ごっこをし始めたくらいだ。この砂を、さらさらと手で弄んでいるだけで心が落ちつく。

手で砂をすくい、指の隙間から、砂時計のように砂がこぼれ落ちるのを感じてみる。全て落ちきって、手をはたくと、汚れも何もない。非常に清浄な、気持ちのよい砂である。

では、なぜここに素晴らしい砂があるのだろう。しかも日本三大砂丘の一つとされるほど、長大で、しかも幅が広い砂浜が広がっているのだろうか。

ポイントは2つあると思う。一つは、鹿児島のシラスの土壌である。脆い細粒の土壌が鹿児島を厚く覆っていて、これは浸食も受けやすいことから雨でどんどん川に流れていく。これが砂丘の原料供給を担っている。

もう一つは、吹上浜にそそぐ万之瀬川(やその他のいくつかの川)である。シラスを浸食してきた川は、大量のシラスの土砂を海に放出する。しかし吹上浜の海岸線は、海流的にそうなのか、地形的にそうなのかはわからないが、どんどん土砂を放出するというよりは、割合にこの土砂が溜まっていきやすいようである。だから、吹上浜のような長大な砂丘ができたのであろう。

つまり、「砂の祭典」の元を辿っていくと、鹿児島の人が昔から苦労し続けているシラス土壌に行き着く。この脆い土壌のお陰で、鹿児島は崖崩れなどの風水害が多いし、シラス台地は農業生産性が低く、長く貧乏な農業に甘んじるしかなかった。

「砂の祭典」の中で、そんな地質の話まで遡るのはちょっとハードルが高いのかもしれない。でも人間の文化を育む風土というものは、地質や気候、そこにある自然が作ってきたものだから、せっかくイベントをするのなら、そういう掘り下げもしていったらいいと思う。

そういう考えで、私は「砂の祭典」の広報部員として、今回「吹上浜と砂文化」という7本の記事を公式ホームページに書いた。

1.吹上浜の松林をつくった宮内一族
2.サンディーくんのモデル! 吹上浜のウミガメ
3.国の天然記念物、ハマボウの群落
4.世界で約3000羽しかいない野鳥クロツラヘラサギがやってくる
5.特産「砂丘らっきょう」
6.話題の野菜「長命草」が沿岸に自生
7.吹上浜には多くのクジラやイルカが来遊

こういう記事、書いている自分がいうのもなんだが、集客には全く役に立たないと思う。広報部員としては、もっと集客に繋がる派手な仕事をした方がよっぽど生産的かもしれない。

でも、ただ賑やかなイベントをしていますよ、というだけではなくて、その背景にどんな自然や歴史があるのか、そうした風土とどう人は付き合ってきたのか、ということがないと、はやりイベント事というのは空疎になる。だって、人を集めたいだけなら人気の芸能人を呼んでくる方がよっぽど効果がある。だがそれが中心になってしまうと、なぜ吹上浜でするのか? という根幹が揺らぐ。

こういう記事を読んで勉強したら、イベントが一層楽しくなる、とは言わない。実際あんまりイベント内容と関係ない。でもイベントの主催者側として、やっぱり「砂の祭典」のルーツは吹上浜で、「我々は吹上浜を大切に思っています」という姿勢が見えなかったら、根幹があやふやなな感じがするのである。

「砂の祭典、何のためにやってるの?」という人は多い。イベントとしては赤字だし、波及効果はあると思うもののはっきりとはわからない。関係者は、GWは働きづめになって(しかもボランティアも多い)、疲弊してしまう。

もちろん地域の活性化に一役買っていることは確かだ。熱意ある人も多い。決して無意味なイベントではない。でもやはり、地域活性化というボンヤリとした目的しか見えないところがある。

だから、私としては、「吹上浜の環境保全」を「砂の祭典」の目的(の一つ)に位置づけたらいいと思う。

例えば、広大な松林は、実はマツクイムシやシロアリの被害で枯れたり植樹したりを繰り返している。だから、「砂の祭典」の時に植樹活動なんかできないか。また、「砂の祭典」の時期はちょうど、ウミガメの産卵シーズンにもあたっている。現在は、ウミガメのモニタリングすら十分ではない。ウミガメが産卵しやすい砂浜を維持するための活動(ゴミ拾いとか)も取り入れられる。万之瀬川河口付近の干潟の環境ももっと改善して、野鳥観察会を祭典に組み合わせられないか。ここが九州でも有数の野鳥スポットになったら面白い。ホエールウォッチングだって組み合わせられるかもしれない。「砂の祭典」が、吹上浜の自然のモニタリングと展示機能を備えたら面白い。

こういうアイデアは、やっぱり地味で、集客力はないに決まっている。あるいは、費用対効果が悪すぎる。でもそういう芯のある活動は、どこに出しても恥ずかしくないもので、市民が誇れるものだ。「砂の祭典」のような街ぐるみでやっているイベントは、市民全員が誇れるイベントにならなければならない。

そのためには、「砂の祭典」が立脚しているものがなんなのか、我々は何に価値を感じ、何を次世代に伝えていきたいのか、そういうことを見直さなければならないと思う。

私の書いた7本の記事は、そこまでのスコープは持っていないが、そういう見直しに少しでも役立てば幸いである。

2017年4月30日日曜日

「砂の祭典」にかける想い——われわれはただ善良な住民であってはならない

たびたび書いてきたように、私は今年の「砂の祭典」の広報部員をしていて、その活動でこのたび「30回記念特別インタビュー」というものが公開されたのでお知らせしたい。

【公式】吹上浜砂の祭典|おかげさまで30回記念
※リンク先半ばくらいにあります。

この「砂の祭典」、一言でいうと「マンネリになっていないか?」というのが最大の課題で、10万人を動員するイベントに成長してはいるものの、「一度行けば十分」みたいな立ち位置にもなってきている。

それで、「例年通りで行きましょう」という雰囲気を壊すため、私は広報部会でもなんやかんやと文句を言ったり提案をしたりしてきた。最初は、「停滞した場で孤軍奮闘しても疲れるだけかも…」という危惧があったが、わざわざ部会に参画してくれた仲間や理解をしてくれたみなさん、受け止めてくれた事務局のおかげで思いの外楽しく充実した活動となり、すごくありがたかった。本当に感謝である。

で、その仲間たちの提案も含めて、今年の「砂の祭典」の広報ではいろいろ新しい取り組みがあるが、今回はその中の一つで私がメインに担当した「インタビュー」の話である。

以前「砂の祭典」についてのブログ記事でこういうことを書いた。
まずはこのイベントに関わっている人の生き生きとした姿を、どんどん発信していくことから始めたらよい。海外からの招待作家がどんな気持ちで南さつまに来たのか。実行委員会の人たちが何に悩み、何を目指しているのか。ボランティアの人たちの働きぶり。そして実質的な主催者である、南さつま市役所の職員の皆さんの熱い想い! そういうものをSNSとかリーフレットとか、様々な形で伝えていくべきだ。
砂像の素晴らしさを訴えるのもよいが、そこに「人」が見えなかったら感動も半減だと思うし、作り手の顔が見えてこそイベントは面白いと私は思うのである。

仲間からも同趣旨の提案があったので、「熱い想いインタビュー(企画名)」として「砂の祭典」に熱い想いで関わっている人たちを取り上げることになったのである。

それで、(1)本坊市長(実行委員長)、(2)中村築氏(実行副委員長で砂像製作の縁の下の力持ち的な人)、(3)常潤高校の先生(会場を彩る花の一部を育てている)、(4)六葉煙火(会場で毎夜行われる音楽花火イベントを担当)、(5)鮫島小代子氏(ボランティア・障害者関係)の5名のインタビューを行った。本当はあと3人くらいやりたかったが私の方の力不足もあってここまで…という感じだった。

vol.01 「砂をまちの魅力に」南さつま市長 本坊輝雄(吹上浜砂の祭典実行委員会 会長)
vol.02 「大地と海・松と砂」中村 築 砂の祭典実施推進本部 副本部長(日本砂像連盟所属)
vol.03 「無農薬での花の苗づくり」鹿児島県立加世田常潤高等学校 塩屋先生+福島先生
vol.04 「砂像があって花火が生きる」「六葉煙火」代表取締役社長 古閑潔さん、橘薗光宏さん
vol.05 「"砂"とともに歩んだ人生」(前編)(後編)南さつま市社会福祉協議会
ボランティア連絡会 会長 鮫島小夜子


あ、一応付け加えておくが、このセレクションは、あくまでもご縁に基づくものであって、この方々が「砂の祭典」関係者の中でも特に熱い人、なのかは検証してないのでその点は誤解なきように。砂像製作の人などには、もっともっと熱い人もいると思う。

で、インタビューについては、率直に言って、私自身がすごく面白かった!

やはり、なんでも熱意をもってやっている人の話というのは面白い。それに「砂の祭典」は今年で30回目である。30年もすれば子どもは大人になり、青年は壮年になる。「砂の祭典」はそれぞれの人生に深く関わっていて、このイベントはただ年に一度のお祭りだというだけじゃなく、もはやこの地域の人の人生を左右するほどの存在感があるんだということを再認識させられた。

特に面白かったのはトリに持ってきた鮫島さんのインタビュー。涙なしには語れないほどの話で、予定より1時間半くらい超過して行われたインタビューだった。というわけでvol.05だけでもぜひ読んで欲しい。

そして、このインタビューは、私自身が「砂の祭典」を見直すきっかけにもなった。最初は、確かにマンネリなイベントという印象が強かった。だが、細かく見てみれば、毎年抱負を持って取り組んでいる人がいるし、惰性で続けているだけのイベントではない。運営体制の中に「例年通りで行きましょう」という事なかれ主義が瀰漫しているのは事実としても、関係者の数は膨大だから想いの向かうところもいろいろあって、簡単に変えられるわけではないというのもわかった。そして「砂の祭典」は、外から見えるよりも、面白い場になっていると思った。

でも、だからといって、「砂の祭典はこのままの調子でずっと続けばいいよね」と思っているわけではない。インタビューの中でも、「もっとこうしたらいいのに」という声はたくさんあった。とりわけ「熱い想い」で取り組んでいる人に話を聞いたからこそ、変えていかなければならないという気持ちを新たにしたところである。

鹿児島を代表する民俗学者、下野敏見氏が著書の中で述べている。少し長いが引用する。
「しかしこの個性豊かな地方文化が現今はご承知のようにばっさりと切られ、あるいは無視されて消滅し去ろうとしている。(中略)かつてのいわゆる善良な民ならいざ知らず、われわれは文化の法則性を知っている上に一つのフェスティバルや一つのイベントに象徴される新文化らしきものを吟味し、批判し、時にはよそと比較して分析し、よりよい祭りや行事を創造することができるのである。それだけの力を地域住民が持っている時代になったのである。したがって、われわれはただ善良な住民であってはならない。その受動性のチャンネルを能動性のものに変えて地域文化の問題に取り組むべきであろう。(強調引用者)」(『東シナ海文化圏の民俗』)

「砂の祭典」には、正直、批判的な人も多くいる。毎年、あれだけの予算と労力をかけて意味があるのかとか、そもそも何のためにやっているのか、とか。いや、私自身が、どっちかというとその批判派である。

でも、そういう批判を「批判するだけなら簡単だ」などという言葉で片付けずに、運営側はしっかりと受け止め、地域文化を育む場として成長させていかなければならないと思う。そして批判する側は、ただ言うだけでなく、「よりよい祭りや行事を創造する」力を発揮していかなければならないと思う。「善良な住民」として思考停止するのは論外だが、斜に構えていてもいけない。

今回、私が「どっちかというと批判派」なのに「砂の祭典」の運営に関わったのは、そういう思いである。

…ところで蛇足だが、私の提出した原稿では「「砂の祭典」にかける想い」という企画名だったのに、いざ記事が公開されたら「30回記念特別インタビュー」という事務的なタイトルになっていたので若干残念である。他にも編集方針に言いたいことはあるが、基本的には私の原稿を尊重して掲載してくれた。全部読むと3万字はあると思うので読むのは大変だが、多くの人にぜひ読んでもらいたい。

2017年4月16日日曜日

たった一人の「エビネ展」

今年も大浦町で、「エビネ展」が開かれた。

みなさんはエビネを知っているだろうか? 若い人は知らないかもしれない。山野に自生するランの一種で、変異がとても大きいことから色や花弁の形に様々なバリエーションがあり、30年〜40年前くらいに日本中で大ブームになったことがある。

色や形の具合から、あたかも焼き物に銘がつけられるように株ごとに絢爛たる銘がつけられて、銘品は非常な高値で取引された。

ここ大浦町でも、エビネと言えば元来は趣味人が好きに育てる野草だったらしいが、ブームが始まった頃、ある人が育てていたエビネが1鉢10万円で売れるということがあり、それに目をつけた人たちが次々にエビネ栽培に乗り出した。そして変わった株を見つけたいと山野に自生するエビネを手当たり次第掘り出してしまったため、山にあるエビネは全部取り尽くしてしまったほどだという。こういうことが大浦町だけでなく、全国的に行われたそうだ。

ブームの当時は、普通のおばちゃんが10万円もするエビネの株を買うものだったらしい。この地域の最高価格の取引では、1株300万円もするものを買った人がいるという話である。その頃は平凡な株でも数十万は当たり前だったというから、とにかく多くの人が争って買い求めたのである。

どうしてそんなエビネバブルが起こったのかというと、人の持っていない珍しい花を咲かせたい、そして自慢したいという趣味人の気持ちがそれを支えていたのは当然として、それを加速させたのが、エビネは球根(※)で株を増やせるという特性だった。

だから、例えば1株を買うのに10万円かかったとしても、それを2株に増やして売れば20万円になる。10株に増やせば100万円にもなるのである。とすれば、仮に少し値下がりしたとしても十分元が取れるわけだ。そんなことから、一種の投機としてエビネが機能し、異常なる高値になったのであった。

しかしこの特性は、値下がりを宿命付けられてもいた。というのは、どんなに珍しい株であっても、それを一度売ってしまったらそこからドンドン増やされて貴重でなくなってしまうということだからだ。10万円の株が10倍に増やされたら、その株は1万円になるのが世の中の道理である。こういうことからブームのまっただ中でも価格の乱高下はあったらしい。そして、ある時値下がりして、それから値上がりすることはなかった。

ちなみにインターネットで調べてみると、ウイルスの蔓延によってダメになる株がたくさんあって栽培を諦めた人が多かった、という事情もあるらしいが、地元で話を聞く限りはそれは主要な要因ではないようだ。

また、山野のエビネが乱獲されたのは珍しいエビネを探し回ったためだが、人工交配と発芽の技術が確立して交配もののエビネが出回るようになると、自然にあるものよりずっと美しい花が咲かせられるようになり、自生品種の価値が下がった。そうなるとプロの園芸業者が一手に供給を押さえてしまうので、山で見つけてきたエビネが何十万円で売れるという一攫千金の夢がなくなってしまって、エビネが普通の人々の射幸心をあおるというこもなくなった。こうしてエビネに投機的側面がなくなって、エビネブームは終わりを告げた。

今でも昔のように趣味人はいるから、一株何十万円というエビネもあるそうだ。だが、昔と違って平凡な株なら二束三文で買えるし、一部の人しか育てていない。大浦町でも、エビネを育てているのは数人になった。

この「エビネ展」を主催しているMさんもその一人である。というより、この「エビネ展」はかつてのエビネブームの置き土産として、Mさんがたった一人で続けているものである。販売するためではなく、育てているたくさんのエビネを見てもらうために。

私はこういう、たった一人になっても続けていくという心意気が好きである。こういう活動は悪く言えば自己満足で、そこから何も産まれないのかもしれないが、世間に迎合して流行りのことをするよりずっといい。

いや、一人になっても自分のやりたいようにさせてくれ、という気持ちこそが、健全な社会や文化を支えているのかもしれない。少なくともエビネを栽培する人が一人もいなくなってしまったら、かつて生みだされた絢爛たるエビネ銘品の数々は雲散霧消してしまう。それは日本の園芸文化にとって大きな損失である。そういう意味では、こういう頑固な活動は、何も産まないどころではなく、社会的にすごく意味があることのような気がする。

大げさに言えば、人類文化を支えているのはこういう人たちかもしれない。

※正確には球根ではなく、偽鱗茎(バルブ)というもの。

2017年4月11日火曜日

吹上浜の「木を植えた男」

以前にも少し書いたが、私は今年の「吹上浜 砂の祭典」の運営に携わっていて、特に広報の仕事を担当している。

だが賑やかなイベントの情報発信をするのは苦手なので、吹上浜の自然や文化についてちょっと発信できないかと思い、今調べ物をしているところである。

例えば、吹上浜の松林。

吹上浜は約40キロもある日本最長の砂丘であり、そのうち約25キロは広大な松林に覆われている。右を見ても左を見てもどこまでも続く、人工物の一切ない縹渺とした砂浜、そしてその砂浜と人界を隔てるかのように存在しているこの鬱蒼とした松林は、ちょっと圧倒される風景である。「砂の祭典」で南さつまを訪れた人には、ぜひ立ち寄ってもらいたい。

では、砂浜沿いにある広大なこの美しい松林は、どうやってできたのだろうか。

この松林は自然に生えてきたのではなく、砂丘からの砂の飛散を防止するためにわざわざ作られたものだ。宮内善左衛門という人が苦労して松を植えたと、「砂の祭典」会場の近くにある「沙防之碑」というのに書かれている。それは知っていたのだが、歴史を紐解いてみると話はそれだけではない。本当は「砂の祭典」ホームページ上で発表しようと思っていたがあまり一般受けする話でもないので、ここに書いてみたい。

吹上浜の海岸一帯は、藩政時代には薩摩藩の所有地で、かつては松だけでなく、樫やタブ、椎などが生い茂る広葉樹の森だった。この一種の防風林に守られた田畑を耕作しながら、地域の人々は細々と生活していたと思われる。

しかし江戸初期の1647年、突如としてこの森林に大規模な火災が発生し、七昼夜も燃え続け、森がことごとく焼失してしまった。今でも潟地を掘ると、その頃の焼けた丸太や焼けぼっくいが出てくるという。そしてこのため、東シナ海を吹きすさぶ強風が砂丘を抜け、集落を襲うようになった。大量の砂が、この風によって運ばれてきた。

集落を襲う飛砂はすさまじく、田畑は砂で埋まってしまい、小さな集落は舞い上がる砂で生活が出来なくなってきた。金峰町高橋の長崎集落というところは、村落や耕地が砂に埋まってしまうので3回も移住したという。今でこそ吹上浜には砂丘らしい砂丘はないが、古くは40メートルもある砂丘が各所に吹き上がっていたそうである。

この危機に立ち上がったのが、田布施郷(金峰町)の下級武士だった宮内 良門という人物だ。良門は、吹上浜に以前のような砂防森林を取り戻そうと考えた。一方で、薩摩藩もこの惨状を見て、何か対策をしなければならないと思っていた。そこで時の家老弥寝八郎右衛門は良門の熱心な願いを聞き入れ、良門を潟取締役(海岸林造成工事の責任者)に取り立てた。

願いが叶った良門はわざわざ砂丘の中に引っ越して、砂丘の緑化に一生を捧げた。飛砂に苦しめられていた周辺18集落の民に呼びかけて労力を出してもらい、集落毎に競争させるような形で防砂垣を作り、松の植栽を行った。この頃、良門が植えた松だけで2万5000本にも上る。良門は、遺言状で「子々孫々までこの松林をよく見廻り手入れしてほしい」と書き残している。こうして海岸には少しずつ緑が戻り、藩もその功績を認め以後3代に渡り宮内家に潟取締役の重責を務めさせた。

ところが宮内家も4代目になると潟取締役が廃止され、それまでのように松林を守り育てようとする熱意も消えてしまった。やがてせっかく作られた松林は荒れ果てて元の砂漠と化し、幕末の天保・嘉永・安政の頃に至ると暴風によって飛砂の害はいよいよひどくなり、54町歩(ヘクタール)もの耕地が砂で埋まってしまった。

時の藩主、島津斉彬は吹上浜の災害に心を痛めこの様子を視察。「これは聞きしにまさる砂漠である。金峰山までいったらやむだろう」といい、郡奉行関山鬼三太や見廻り役と相談したが、難工事を誰も引き受けようとせずどうしようもなかった。

この危機に立ち上がったのが、宮内良門の子孫だった。弱冠33歳の宮内 善左衛門は文久元年(1861年)、農民の窮状を見かねて奉行所を訪れ、潟見廻り役をかってでて許可された。善左衛門は朝早くに麓(市街地)の家を出て砂丘まで歩き、夜遅くまで仕事をしたがそれでは能率が上がらない。そこで意を決して数戸を引き連れて、先祖と同様に砂丘(塩屋潟)に移住し、松の植樹に一生を捧げることにした。

すぐに資金は尽きてしまったが善左衛門は家業をなげうち、私財300貫(今の700〜800万円)を投じて砂防工事を継続。後任の郡奉行らも事業を督励し、翌年には藩主から内帑金(ないどきん=藩主のポケットマネー)も与えられた。こうして不毛の砂漠だった数百ヘクタールが松林に変じ、しかも住民12戸が移住して農漁業に従事して暮らしていくことが可能になった。

善左衛門のこうした功績は認められ、やがて数次にわたり大がかりな砂防工事が藩費で行われた。廃藩置県後は県の手に移ったが西南戦争のため中断し事業が頓挫。徐々に緑化は進められたが海岸線は遙かに長く、砂防林の完成を見ることなく、善左衛門は病に斃れて明治34年に73歳で亡くなった。病床にあっても涙を流して砂防工事の継続を訴えたという。

当時の県知事加納久宣はこの善左衛門の熱意に応え、国費支弁を政府に陳情。それが受け入れられて砂防工事が農商務省に移管。さらに明治30年には吹上浜一帯が「飛砂防止潮害防備保安林」と位置づけられ、本格的な植栽計画が開始された。やがて植栽範囲は要望に応じ加世田側にまで及んで、例えば明治33年には小湊に松苗38万9700本、明治34年には新川海岸にも38万9700本、というように営林署が大規模な植栽事業を敢行した。この植栽事業は昭和の初めまで続き、鹿児島県はこの広大な松林を保全するため、昭和28年(1953年)には一帯を県で最初の県立自然公園の一つとして指定した。

こうして、宮内良門が思い立ってから約300年をかけて、ようやく吹上浜の海岸は壮大な松林で覆われることになったのである。一人の人間の熱意、それが子々孫々にまで伝わり、遂には広大な自然をも変えた。前回の記事で述べた「愚公移山」という言葉、それを実際に成し遂げた人間が、宮内 良門とその一族であった。

今でこそ「砂の祭典」のようなイベントで砂は娯楽になったが、かつてこのあたりの人々は砂に苦しめられた。それを変えたのは、たった一人の「木を植えた男」だったのである。 ここを訪れたら、ただ松林を見るだけでなく、そういう人間の偉大なる営為に思いを馳せてもらいたい。

ちなみに善左衛門の子、宮内 敬二は初代田布施村長となり活躍したが、その子孫は知覧へと移住していったという。彼らは今どういう思いでこの白砂青松の海岸を眺めているのだろう。

【参考文献】
『加世田市史』1986年、加世田市史編さん委員会
『金峰町郷土誌 下巻』1989年、金峰町郷土史編さん委員会
『吹上浜砂丘松林の歴史—みんなの力で白砂青松を取り戻そう—』2000年、鹿児島県林業改良普及協会

2017年4月4日火曜日

枕崎「かつ市」の中原さん

隣町の枕崎市、そのシャッター街になりかけた目抜き通りの一角に、小さなかつお節屋が昨年ひっそりとオープンした。

このお店、「かつ市」という。

手がけたのは、地元企業の「中原水産」、その若社長の中原晋司さんである。

中原水産といえば、国道270号線を南下して枕崎へ入る、その出会い頭に当たる「平田潟」というところに、大きな工場があった。随分大きな商売をしていたそうである。しかしいつしか経営が悪化。この家業の危機をなんとかするため、地元に帰ってきたのが中原さんであった。

中原さんは、東京では外資系コンサルのマッキンゼーに勤め、華々しいビジネスの世界で生きてきた人である。「かつ市」は一見地味なかつお節屋であるが、最近は香港や台湾の人まで訪れる隠れた本格スポットになっているし、街としてもかつお節の輸出やフランスでのかつお節工場の設立など先鋭的なビジネス展開に目を引かれる。こういう僻地の零細企業としてはウルトラC級の実績が出てきているのも、中原さんの手腕に寄るところが大きいと想像される。

しかし、中原さんは、そういう華々しい世界でだけ活躍する派手な人ではない。(同じ大学卒ではないのだが)大学の同窓会繋がりで知遇を得て、直接お話しを聞く機会をいただいたのだが、そういう話は氷山の一角でしかない。

中原さんが帰郷して初めにやったことは、大リストラだそうだ。

赤字とはいえ主力だった製造部門を、断腸の思いで廃止した。大きな工場はガランドウになった。相当な決断である。そして販売のみに注力することにして、中原水産のビジネスを製造業から商社的なものに変えた。それで平田潟にあった広大な敷地が不要になって、事務・店舗機能のみの小さな社屋に変えることになった。そして出来たのが、「かつ市」である。

そう聞いて、驚いた。一見華々しく見える海外との取引や、「出汁の王国・鹿児島」といったプロジェクトの裏に、そんな苦しい内実があったのかと。そして、その苦しさを一歩一歩乗り越えながら、地味な仕事をクリアしていこうとする姿勢に頭が下がった。

枕崎は、言わずとしれた「かつお節の街」である。が、その展望は必ずしも明るくない。

何しろ、かつお節を削って出汁を取る、ということを普通の人はしなくなった。恥ずかしながら私もその「普通の人」の一人である。味噌汁をつくる時は必ず昆布で出汁を取るが、かつお節までは削らない。そもそもかつお節削り器が家にない。

だから、(削らない1本のままの)かつお節を売る、というのはもうビジネスとして厳しくなった。削ったかつお節であっても、出汁を取る人がどんどん少なくなってきているわけで、削って売ったらいいという問題でもない。

そこに対して、中原さんは「出汁の美味しさを改めてわかってもらう」というこれまた地味な活動をしている。お店に来て下さったお客さんにはもちろん取りたての出汁を味わってもらうし、出張では「出汁ライブ」という出汁をとるパフォーマンスをしている。「出汁男」という、ちょっと滑稽な自称を使って。

先日「かつ市」に行ったら、わざわざ私一人のために出汁を取ってくれた。想像とは違って、決して面倒な作業ではない。意外なほど時間もかからない。それで、料理の格がグンと上がる出汁が取れる。これを体験した人は、少なくとも「出汁を取る」という一手間をかける抵抗感がなくなる。

中原さんが「出汁男」になってやるのは、こういう具合に一人ひとりの考え方を変えていこう、という地味な活動なのである。

——「愚公移山」という言葉がある。

昔の中国で、愚公という老人が、生活の邪魔になっていた山をなくしてしまおうと、家族と共に少しずつ山を切り崩しモッコで土を運びだすという気の遠くなる仕事に乗りだした。人は、そんな無理なことを年老いてからするなんてバカなことだと嘲笑したが、愚公は「子々孫々の代までかかっても、少しずつ山を切り崩していけば山は増えることはないのだからいつか山はなくなる」と一切意に介さない。この様子を見ていた山の神はこの旨を天帝に報告し、天帝は愚行に感心して、邪魔になっていた山を別の場所に移してやったということである。

こうした故事から、「愚公移山」といえば壮大な計画でもコツコツと一歩ずつやっていけばいつかは事を為す、という意味の四字熟語となった。

中原さんの仕事を見ていると、この「愚公移山」という言葉を思い出さずにはいられない。枕崎の置かれた状況は決して楽観的なものではないが、こういう人がいる限り、なんとか進んでいくに違いないと思わされる。

鳴り物入りで騒がれる「まちおこし」の活動を見ていると、どうも「ここをこうすれば一発逆転」みたいな発想があるところが多い気がする。埋もれた地域資源を活用しよう、ということ自体はいいことだとしても、その価値はちょっとやそっと広告するだけでは認識されないし、原石を磨いて商品にしてパッケージに入れて流通に載せて、という一つひとつの作業を積み重ねて行く以外に売り込む方法はない。小さな工夫で大きな成果をあげたい、と思うのは人情だが、そういう気持ちだけでは成果は上げられない。結局、何かを変えるには、少しずつ山を切り崩していくような地味な仕事を誰かがしなくてはならない。

そういう仕事をやる人が一人でもいるかどうか、そういうことに、街の命運はかかっていると思う。

中原晋司さんは、まさにそんな人の一人である。

2017年3月13日月曜日

農業に「移民」はいらない

今、日本は人手不足らしい。

特に人気のない職業の場合は。

「そんなの、待遇改善すればいいだけだろ!」というのが経営者以外の方々から言われている。その通りだと思う。だが農村の場合は、そもそも人がいない。それで、安易に外国人を入れようという話に進みがちである。「外国人技能実習生」という名の、低賃金出稼ぎ労働者の活用だ。

そもそも、外国人技能実習生、という制度は悪名高く、日本農業の恥部とも言える。研修の名の下に最低賃金を下回る待遇にしたり(違法)、相手の生活全般を握っているのをいいことに様々な費用をピンハネしたりといった話も聞く。全部が全部そういう悪用のケースではなく、企業と実習生が互いにうまくニーズを満たしあっているケースも多いが(そもそも外国人も自主的に来ているわけだから)、悪用しうる制度になっていること自体が問題だ。

高収益を挙げている成功した農家、という話をよく読んでみると、実際には外国人技能実習生を搾取しているだけの経営だったりする。農業技術なんて関係ない。1000円分の仕事をさせておいて500円しか支払わなかったら、大儲けするのは当たり前である。それは農業で儲けているのではなくて、搾取によって儲けているだけなのだ。

そして、搾取によって儲ける、ということほど確実な金儲けの道はない。一度「搾取」を覚えたら、そこから真っ当な商売に戻っていくのは大変なことだ。こうなると、「どうやったら合法的に搾取できるか」だけを考える商売になっていく。

こんな恥ずかしい仕組みを国策として推進しているだけでも大問題だが、最近はこれでも足りずについに「移民」の検討が始まっているらしい。この新しい「移民」が、「どうやったら合法的に搾取できるか」を目的としたものでないことを祈るが、そうでないにしても、都合よく使える人間を連れてこようという発想には違いない。

しかし、移民というのは出稼ぎ労働者とは全然違う。何しろ、用が済んだから帰って下さいというわけにはいかない。歳を取れば年金を与えなくてはならないし、病気になったら健康保険を適用しなくてはならない。生活に困窮したら生活保護を与えるべきだ。でも働き盛りの時には都合よく働かせておいて、移民がいざ保護を必要とする状況に陥ったら「自業自得だ。移民のために税金を使うなんて馬鹿げている」などと言いはしないだろうか?

イスラーム世界最大の学者とも言われるイブン=ハルドゥーンが、歴史を動かす力を考究し尽くした大作『歴史序説』で14世紀に強調している。社会を成立させる基礎は「連帯意識」にあると。社会は容易には壊れないが、みなが同じ社会を構成する「同胞だ」という意識がなくなれば、その社会はあっけなく崩れてしまう。世界の歴史を見ても、国家というものは敵国との戦争で滅びるよりも、社会の分裂によって瓦解することの方が多い。

移民とは、他の国の人間を「同胞」として迎え入れることでなくてはならない。でなければ、社会に分断をもたらす。我々は外国からの労働者を、「同胞」として迎え入れられるほど、「世界市民」へと成長しているだろうか?

「五族協和」「八紘一宇」を掲げた戦前の人々は、そのスローガンを実践はしなかったが、少なくともそういった大義名分がなければ他国の併合はできないと思っていた。ただ力によって人々を支配するのではなく、もともと我々は一つなんだという建前を必要とした。しかし今の、移民についての検討はどうだろうか。誰を同胞として迎え入れるか、という観点はほとんどないように見える。ただ、都合のよい人を連れてこようという話にしか見えない。建前だけの大義名分すら、そこにはない。

私は鹿児島生まれではあるが、ここ南薩には一応Iターンで移住してきた。自分自身は地域によく受け入れてもらっていると感じているが、決して順調な移住だけではないこともいくつか見て来ている。最近は、行政が移住を強く推進していて、ちょっとしたブームになってきているようだ。だがその移住は、「同胞」を迎え入れようというものになっているだろうか。ややもすれば、地域にとって都合のよい人材のみを求めるものになっていないか。

もちろん、わざわざ外から人を受け入れようということになれば、都合の悪い人が来てもらっては困る、というのは自然な感情である。できれば有為の人材に来てもらいたい、というのは当たり前だ。そのために魅力的な仕事を用意したり、環境を整えたりすることはいいことだ。だがそれをするのなら、今、現にそこへ住んで仕事をしている人の待遇改善をするほうがよいのではないか。

「そんなこと言っても、農村には人がいない。集まらない」という声が聞こえてきそうである。農業だけでなく農水産物の加工なんかも、外国人技能実習生でなんとか人をやりくりしているところは多い。

しかし自分自身が農業に取り組んでみてわかった。少なくとも、農業は決して3K(きつい、汚い、危険)の仕事ではない。きつくもないし汚くもないし、それほど危険でもない。泥で汚れてもそれは別に汚くはない。むしろ土というものは清浄なものだ、ということが最近分かってきた。昔なら人糞の撒布なんかもあって事実汚かったのかもしれないが、今はそういうこともほとんどない。そして、「きつい」は全然当てはまらない。人間にとっていちばんきついのは、何をおいても人間関係である。上司や客から罵倒されて働く職場がいちばんきつい。少なくとも農業(独立自営農)にはそういう精神的きつさは全くない。体力的にきついのは時々あるが、最近は機械化が進んでいるからどんどん楽になってきている。

ただ、別のK、すなわち「稼げない」はあるかもしれないと思っている。でもそれにしたって、稼げない仕事ばかりになってきている昨今、農業だけが特に稼げないというわけでもなさそうだ。こう考えてみると、農村に人がいない、農業に人が集まらないというのは、それほど必然ではないと思う。外国人労働者に頼らなくても、農業の魅力だけで人集めはできると私は思う。

外国人技能実習生がいなかったら、農業が成り立たない! なんていう人がいるかもしれない。米国の農業も、メキシコからの移民に大きく依存していた。EU先進国の農業も、東欧などからのEU内移民によって成り立っていた部分は大きいらしい。農業は、やはり低賃金労働者を必要とする産業であることは確かである。しかしこの南さつま市大浦町では、今のところ外国人技能実習生は一人もいないようである。日本の端っこで、僻地というハンデを抱えながらも、地元勢でそれなりに農業をやってきている。外国人技能実習生がいなくても、現に成り立っているではないか。

農村に人がいない、それは大問題には違いない。

しかし、ルネサンスの旗手となった全盛期のフィレンツェの人口が、たった4万5千人くらいである。南さつま市の人口が、約4万人弱で同じくらいだ。フィレンツェは世界の富を牛耳っていたし、こんなに高齢化していなかったし、ヨーロッパ中から俊英が集まっていたから人口が同じくらいだからといってもそれを比べるのはおかしいかもしれない。

だが、我々一人ひとりができることの可能性は、ルネサンス時代と比べて千倍にも広がっている。志を同じくする人が10人でも集まれば、世界を変えることだって不可能ではない時代に我々は生きている。人が少ないからお先真っ暗、というのはあまりに短絡的なのではなかろうか。

私自身は、外国人がたくさん日本に来て、日本の遅れた文化を変えてくれたら面白いと思っている。何にでも印鑑がいるとか、FAXで請求書を送らなきゃならないとか、上司には「了解しました」ではおかしいとか、そういうどうでもいい、「伝統」でもなんでもないことはどんどん破壊すべきだ。しかし移住にまつまわる話を聞いていて感じるのは、同じ日本人の移住者すら、「同胞」と見なしてくれない地域はまだまだ多いということだ。

だから都合のよい外国人労働者を連れてくることよりも、今社会に生きる人の可能性を、もっともっと押し広げることこそが必要だと思う。待遇を改善し、人間らしい暮らしを送れるようにすること。人生を楽しめること。ステキな思いつきを現実に変えられる余裕を持つこと。誰を搾取するでもなく、人生を謳歌できるようにすること。

そんな生き方ができるようになれば、「人手不足」は自然と解消されるだろう。

【2017.3.15アップデート】
適正に「外国人技能実習」の制度を使っている方が不快に思われる書き方をしていた部分があったので、若干改めました。