2016年3月26日土曜日

「薩摩文旦」サワーポメロの定植

以前、サワーポメロには将来性があるのではないかという記事を書いた。

その時は、自分では「これから増やしていこうという気もないが…」と書いていたものの、いろいろ考えてみて、理屈の上ではやっぱりサワーポメロは将来有望だと確信するに至ったので、今年約30本サワーポメロを植えてみた。

時々農作業を手伝ってくれる父も「今時サワーポメロが売れるはずがない」と言っているし、周りにもサワーポメロに力を入れている農家はいないので、ある意味リスクのある選択だが、理詰めで考えてこうだとなったら、それを実行に移してしまうのが私のサガである。

ところで、このサワーポメロというもの、調べてみると実体がはっきりしない。

「サワーポメロ」という柑橘には鹿児島県以外の人は馴染みがないと思うが、それもそのはずで実は「サワーポメロ」という柑橘は存在しない。これはブンタンの一品種「大橘(オオタチバナ)」というものの鹿児島県での通称・愛称であり、柑橘の分類としては単なるブンタンなのである。

昭和の終わり頃、鹿児島県が「大橘」を将来有望なブンタンであるとして生産奨励を行い増産を図ったことがある。この時、「ブンタン(大橘)」では社会へのアピールが足りないということだったのだと思うが、鹿児島県と鹿児島県経済連でこの品種の通称を公募したのである。それで、昭和60年に「サワーポメロ」という通称が定まり今に至っている。年寄りに聞くと「昔はサワーポメロなんかなかった」と言われるが、おそらく、この通称決定以前はこの果物は単に「ブンタン」と呼ばれていたのだろう。

しかし、この名称が定まった時には、時代は既に軽薄短小で食べやすい果物へとシフトしてきていた。ブンタンのように、大きくて皮が剝きにくく、包丁を使って処理しなければならない柑橘は人気が出なかった。結局、「大橘」は増産されたものの、期待されたほどの利益が生まれず、今では県内で40haくらいしか生産されていない。実はまだ生産奨励品目から外れていないらしいが、実際にこれを増やしていこうという農家は少数だと思われる。

さらに、このような経緯で「サワーポメロ」という名称が定まったためもあるのだと思うが、この果物は名称が混乱している。同様のブンタンが熊本県では「パール柑(カン)」という名称で販売されているが、この「パール柑」と「サワーポメロ」が同じものなのか、違うものなのかもあやふやである。

「パール柑」は、鹿児島の垂水の果樹試験場にあったブンタンを原木にして熊本県で育成されたものであるが、これが昭和20年代のことであったために、同じ果物が鹿児島と熊本で違う名称で呼ばれることになった、と言われている。

とまとめたら簡単なのだが、実はそうはいかない。

「パール柑」と「サワーポメロ」は別物だ、という説が存在するのである。曰く、「パール柑」は「サワーポメロ」ではなく、「土佐文旦」だというのである。実際、苗木屋のカタログを見ると「土佐文旦(パールカン)」と書いてある。そして、「土佐文旦(パールカン)がサワーポメロとして販売されていることがあるので注意」などと但し書きがあったりする。どちらが本当なのか。

しかし、今度は「土佐文旦」を調べてみると、これは「サワーポメロ」と同一品種だという情報もあるのだ! 「土佐文旦」は「土佐」とついているが、実はこれも鹿児島の加治木にあったブンタンから増殖させたもので、実際は鹿児島のブンタンであり、その原木がどうやら今で言うサワーポメロかその近縁種だったらしい。これを元に高知県で原木が確立したのが昭和4年の話である。

となると、結局「大橘」=「サワーポメロ」=「パール柑」=「土佐文旦」、ということになるが、苗木屋のカタログでも「サワーポメロ」と「土佐文旦」は別の苗木として販売されており、それどころか収穫時期や果重、果実の特性(ジューシーさなど)も違うと書いてある。うーん、真実はなんなのか。

実は、「大橘」は鹿児島在来のブンタンであり、来歴は不明ながら、いわば自然発生的な品種のようである。つまり誰かが品種改良して作ったものではなく、ブンタンを育てているうちに交配を繰り返していつからか生まれた品種ということになる。なので、現代でいう「品種」にぴったりこないところがあるのだろう。そのため、同じ「大橘」でも様々な変種や亜種が存在して、同一品種が違うものとして認識されたのかもしれない。

そもそも、鹿児島はブンタン類の本場である。中国からブンタンの原種が渡ってきたのが鹿児島の阿久根だという。大橘だけでなく、鹿児島ではかつてたくさんのブンタンが自然発生的に栽培されていたようだ。ブンタンの大きな果実はどことなく南国を彷彿とさせ、鹿児島の南国ムードを演出するのにも一役買っていた。「ボンタンアメ」(鹿児島では、ブンタンは「ボンタン」と発音されることが多い)とか「ざぼんラーメン」はいかにも鹿児島な感じがする(ざぼん=朱欒はブンタンのこと。ざぼんラーメンは鹿児島のラーメンの老舗で、別にラーメンにブンタンが入っているわけではない)。

今から考えると、大橘の「サワーポメロ」という通称があまりよくなかったかもしれない。「サワー」と言いながら酸っぱさが際立っているわけでもないし、どことなく外来の品種のような感じがして地に足がついていない名称である。むしろ鹿児島在来のブンタンであることを誇り、シンプルに「薩摩文旦」で良かったのではないか。そっちの方がずっとわかりやすくて認知が進んだような気がする。

「土佐文旦」で文旦の栽培振興を行った高知県は、今では鹿児島を遙かに凌ぐブンタンの産地となっている。「土佐文旦」から生まれた「水晶文旦」は、非常なる高級品を産み、一玉2000円もする極上品が販売されてもいる。ブンタン栽培の中心地はすっかり高知県になってしまった。


もちろん、鹿児島を改めてブンタンの産地にしていこうというのは、ちょっと無理があるだろう。だが、「大橘」は戦前のブンタン類の中では最高の品種とされていたそうである。高知みたいに上手く栽培・販売はできないにしても、在来の「大橘」はまだ活かす道があるのではないか。改めてその可能性を信じて、「薩摩文旦」を作ってみるのも一興だろう。

【参考】
広報いちき串木野 2015.2 VOL.112 「知っておきたいサワーポメロの話」(p.11)

2016年3月22日火曜日

縁あってアーモンド栽培がちょっとだけ拡大

アーモンド栽培の記事は、「南薩日乗」の中でも特に反応(アクセス数・コメント)がある。日本でアーモンド栽培に取り組んでいて、それをネットで発信しているところはごく限られているためだと思う。

【参考】アーモンドは無様に失敗中(2015年11月)
【参考】アーモンドはじめました(2014年5月)

そのお陰で、「アーモンド畑を見せて欲しい」という人も結構いる。正直、栽培がうまくいっていないので、実際に見たらガッカリすると思うが、うまくいっていないことも含めて参考になったらと思う。

先日は、突然連絡があって、「アーモンド栽培がうまくいかないのは台木のせいだと思う。自分は苗木屋だからアーモンドの穂木を送ってくれれば適した台木に接いでみる」という話がきた。ブログへのコメントならまだしも、わざわざ電話をくれるなんてただ事ではないし、そういう縁は大切にしたいので早速穂木(ほぎ=新芽がついた枝)を取って送った次第である。

それでさらに、穂木を送ってくれたお礼として、ダベイという品種のアーモンドと黄金桃という受粉用の桃の木の苗木も送って下さった! わざわざ山形から! こちらからお礼しないといけないくらいなのに恐縮である(もちろん、お礼の柑橘を送りましたが)。

というわけで、送られてきたアーモンドも定植したので、アーモンド栽培はちょっとだけ拡大である。この機会に、これまでの反省を込めてアーモンド栽培のポイントをまとめてみたい。(あくまで南薩の気候における栽培です)
  • 最重要なのは排水。日当たりも重要だが、それよりも排水がよいところを選ぶこと。大雨が降ったら水が溜まるようなところは絶対に避ける。
  • 風には弱いので、台風対策をしっかりすること。丈夫な支柱にくくりつけるべし。
  • 土壌は、よく団粒化して通気性がよいところが理想であり、弱アルカリくらいがよさそうである。(私の圃場は粘土質なのでよくない)
  • 梅雨時が試練。梅雨に入る前に下草をキレイに刈って、カタツムリ対策に万全を期すこと。
  • 雨量の少ない地域の方がうまく栽培できると思う(年間降雨量1000ミリ程度)。
まだよくわかっていないのは、肥料について。私の考えでは、果樹はあまり肥料をあげない方がよいと思うのだが、アーモンドの苗木の場合はどうあるべきかよくわからない。肥料を上げた方が初期生育は早いような気もするが…。肥料の実験以前に、それ以外の要素で生育が不調なので実験のしようがないところである。

ともかく、アーモンドの着目度は高く、これが繋いでくれた縁も既に多い。今のところ全然うまくいっていないが、これでは終われないので、まだまだ悪あがきを続けてみたい。それどころか、詳細はまた別に書くが、アーモンドだけでなく、これからナッツ系を充実させていって、ナッツ園を作っていきたいという計画もある(たぶん、そういうコンセプトでやっている農家は日本でも数少ないはず)。

というわけで、今後のアーモンド栽培にも乞うご期待!(今までが失敗続きなので、期待する要素があまりないですけど、潰滅しない程度を期待してください!)

2016年3月17日木曜日

農村婦人、婦人部、農業女子

最近、「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログ記事が物議を醸している。

私としては、なぜこのブログ記事が賛否両論を巻き起こすのか分からない。日本の子育て支援が薄弱なのは明白で、「そうだそうだ!」となりそうなのに。

この頃は、「保活」なる言葉もあるそうだ。「保育園に入れるようにするための準備活動」のことらしい。希望する人誰でもが簡単に保育園を利用できるようにすべきであり、保育園に入れるために知恵を働かせないといけないというのは異常である。

そんな中、政府は移民労働者の活用も検討しているそうだ。そんなことよりも、働きたいと思っている人が誰でも働けるように、保育園の整備を進めて利用制限の緩和を行い、保育士の待遇改善に努めるという当然のことをやるべきだ。

…という話を枕に持ってきたのは、このところ「農村における女性」ということについて考えているからである。

「女性が活躍できる社会」は実はずっと言われてきたことで、今になって出てきた話題ではない。かつて農村においても「農村婦人」はもっと活躍すべきだという趨勢になったことがある。各地で「農村婦人の家」のような施設(集会所や食品加工所)が出来たり、婦人学級(成人女性の勉強会)の活動が奨励されたり、「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」と叫ばれたりもした。

例えば、女性は農産物の加工に取り組め、といったようなことは少なくとも昭和20年代から言われてきた。今の農産加工とはちょっと意味合いが違う部分もあるが、それでも言われていることの変わらなさには驚くものがある。

ところで先日、先進的な取組をしている有名な農事組合法人のリーダーの講話を聞く機会があった。ここは、素晴らしい集落営農の取組と、企業とのコラボによる食品加工、そして自前の物産館の経営などによって農業関係者が全国各地から研修に訪れるところである。

そのリーダーが強調するには、企業とコラボしたり、物産館でイベントをしたり、要するに社会に関わって行く活動をするには、女性の力をいかに活用するかが大事だということである。そのためこの農事組合法人では、婦人部(という名前ではなくもうちょっと今っぽい名前にしていたが、要は婦人部)を設け、その活動を重視しているんだそうだ。

これは(少なくとも鹿児島の)農村で何か事を起こす時には鉄則で、男衆は飲み会の席では「こうしたらよいああしたらよい」と調子のいいことをいうが、実際に何かやることになったら意外と戦力にならず、女性の方がテキパキと事をこなすことが多い。難しいことでなくても、お客さんに対してお茶とお茶請けを出すような地味だが大切な仕事をこなすのが女性で、まさに縁の下の力持ちという感じがする。

うちの集落でもそうで、例えば集落の新年会、鬼火焚き(どんど焼き)、敬老会といったような行事で食事やお酒を準備するのは婦人会であり、自治会組織の一部である婦人会がこうしたイベントでの骨の折れるほとんどの仕事を担っているように感じられる。

しかしながら、先進的な農事組合法人でも「婦人部」があるということには、相当衝撃を受けた。例えば、名のある企業が女性の社員だけまとめて「婦人部」という部署を作っているとしたら、どんな旧態依然とした組織かと愕然とするであろう。それと同じような衝撃を受けたのである。

組織は、あくまでも適材適所で人事をなすべきであって、性別で部署を決めつけるようなことがあってはならないと思うし、それは既に常識だ。女性は婦人部に属してサポート役に回りなさいというような話をしたら、相当な時代錯誤だと思われるだろう。

これは企業だけの話ではない。例えばイベントの実行委員会のような有志組織を作る場合にも、男性と女性で別の組織になっていたとしたら強い違和感があるだろう。少なくとも名目上は、男女を対等なものとして扱う文化がかなり根付いてきた。

それなのに、全国的に見ても先進的な農事組合法人でも、全く自然に「婦人部」が成立していることを見て、農村組織の意識の遅れに暗澹たる気持ちになったところである。

もちろん、この農事組合法人で女性がサポート役として虐げられているかというとそういうことはない。むしろ組織の重要なメンバーとして様々なことに取り組んでいるようで、収益も上げており、この活動にやりがいを見いだしているようだった。それはよいことだと思う。別に女性が搾取されているとは思わない。私が問題とするのは、女性を「婦人部」に所属させて当然とする意識の方である。

集落の場合は、婦人会的なものがあるのはしょうがないことだ。集落全員が参加する活動であれば、属性で分けて組織を作るのが合理的だ。婦人会、青年団、老人会、などなど。本人のやる気とか、適材適所ということを考えると組織が破綻する。なぜなら、集落自治の活動を積極的にやりたいという人は少数派なので、属性によって強制的に人を集めるのでなければ現実的に人が集まってこないからである。

だが企業の場合は違う。基本的には人はそこに所属して何事かをするという意志を持っているわけだから、それを無視して「女性は婦人部へ」というのはおかしいのである。この農事組合法人の場合は集落営農を営んでいるので、半ば自治会的な側面があるのだろう。そう考えると「婦人部」の存在も理解はできる。しかしそうであっても、話を聞くかぎり「婦人部」の必然性は感じられなかった。

組合のリーダーが言うように「婦人部」は活動の要であり、もし「婦人部」的なものがなかったら組織がうまく回らないということがあるのかもしれない。特に九州の女性は、公的な面で表立って動くというのを避けたり、役職を持たないようにする傾向があるから、あえて「婦人部」を設けて、その枠内で活動してもらう方が、当の女性にとってもやりやすいのかもしれない。つまり実際「婦人部」があったほうが効率的なのかもしれない。「婦人部」だからといって軽視されていることはなく、むしろそれが組織の心臓部になっているのなら、これは一種の「女性の活躍」なのも間違いない。

しかし、「婦人部」という言葉からは、どうも「農村組織にとって都合のよい女性の働き」を称揚しているような響きを感じる。

かつての「農村婦人」の運動もそうだった。「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」といくら叫んでも、その実は「農業の発展のために女性にはこんなことが期待されている」というだけで、女性を都合の良い駒みたいに扱うことが多かった。正直いうと私自身にもこの発想があるので他人事のように批判してはいけないが、当時(昭和30〜40年代)の資料を読むと、「農家の嫁が果たすべきつとめ」みたいなトーンで物事が書いてあるので、さすがにそれは押しつけすぎなんじゃないかと思う(でも今でもこういうことを考えている人は多い)。

最近の「農業女子」はこれとは違って、「これまで男性の領域と思われていたことも女性がやっていいんだ」という雰囲気があるのでとてもいいことだ。「農業女子」のムーブメントがこれまでの「農村婦人」と大きく違うのはそこで、「農村における女性の仕事はこうあるべき」という押しつけがましいところがなく、「やりたいことがたまたま農業でした」という本人の自発性を基本にしていることである。

「今後の農業の発展には女性の力が不可欠だ!」というなら、女性に期待されるいろいろなことを列挙するのではなく、そもそも女性が働きたいような職場を作っていくことが必要である。そして女性に期待するのではなく、むしろ女性の期待に応えるものでなくてはならない。農業という職場(?)はあまり女性向きでないところがある。畑にトイレはないし、日に焼けるし、オシャレな服を着る機会もない。そういうことを気にしない人だけが「農業女子」になればいいんだ、というのは傲岸というものだ。こういう残念な点を補う魅力を作ったり、できるだけ改善していく努力は必要だ。

そして私は、かつて「農村婦人」に向けられていた押しつけがましい眼差しが、今でも女性に注がれているのではないかと危惧している。いくら「女性の活躍」といっても、あくまで男性にとって都合の良い「女性の活躍」だけが期待されているのではないかと。女性は「婦人部」に所属してやりがいのある仕事をやってください、というような、何かちぐはぐなメッセージがあるような気がする。

私も今後の農業の発展には女性の力が不可欠だと思っているし、日本社会そのものの発展にも女性の力が不可欠だと思っている。それはいうまでもないことである。ある産業や社会が男性の力だけで成り立っていくとしたらそっちの方がおかしい。そのために、少なくとも「婦人部」的なものをなくすべきだ。短期的には「婦人部」があったほうが効率的だとしても、人々の自由意志は効率よりも重要である。

働きたい人が働けるように、子どもを産みたい人が産めるように、そしてそうしたくない人は、無理にそうしなくてもいいように、そういう自由意志を尊重する社会が当たり前になって欲しい。都合のよい「女性の活躍」ではなく、女性がやりたいことを思い切りできる社会になって欲しい。

農村にとって都合の良い役目を果たす女性=「農村婦人」という概念が時代遅れになったことは前進である。時代は変わる。農村すら変わってきたのである。

2016年3月11日金曜日

街路樹を育てるという経済政策

先日、南さつま市の下水道問題に関して記事を書いた。

その後下水道問題は、友人のテンダーさんが随分頑張って市議会に意見を届けたが、残念ながらのれんに腕押しというやつで、ほぼ黙殺されてしまった格好である。

【参考】陳情したけど、ガッカリです。南さつま市の公共下水道問題その3(テンダーさんのサイト)

建設自体は既定路線とは思っていたが、1000人近くの署名が集まっていることを真摯に議論しないとは…。それで、論調としては「加世田中心部は税収の中心だからそこに投資するのは当然」というような話になっている模様。かくいう私も、下水道問題にかこつけて書いた2つの記事で述べたように、加世田中心部への重点投資・再開発には賛成である。問題は、それが下水道でいいの? ということだ。

【参考】イケダパン跡地の有効利用
【参考】寄り道と街の発展

でも、上の2つの記事でも、イケダパン跡地を再開発したらどうか、ということ以外には、具体的な再開発の手法についてはほとんど述べていなかった。本町商店街をもっと活性化したら、と言うのは簡単だが、下水道より魅力的な投資が思いつかなかったら絵に描いた餅である。

というわけで、上の2つの記事はネットでもリアルでもとても反響があったので、それに気をよくして、私なりに中心市街地の活性化策を考えてみたいと思う。

さびれた商店街の活性化と聞いてすぐに思いつくのは、イベントとかB級グルメとかコミュニティづくりといった、メディアを賑わすいろいろな事例だろうが、都市計画的に考えると(つまり個別の商店の売り上げを伸ばすということより、賑わいのある地域を作るということを目的に据えるなら)その手法はほとんど一つしかない。それは、集客力のある施設の誘致・創出である。商売というのは、結局人の流れにどう乗るかというところがあるので、集客力がある施設ができさえすれば、そこからどうとでも発展していける。

例えば、加世田本町に市役所の市民課を移転させたらどうだろうか。あるいは、図書館を本町に移転させたらどうだろう? それだけで、人の流れはガラッと変わる。今の南さつま市役所本庁は街の中で孤立していて、人の流れを生みだす力を全く持っていないので、もう少し街の中に入っていって、ヨーロッパにある広場+市庁舎みたいな空間を作っていったら面白いと思う。

しかしながら、集客力のある施設をつくるというのはあまりにも当たり前の活性化策で、面白くもなんともないので、違う観点から提案したいことがある。

それは、街路樹の充実である。

街路樹なんか、ただの飾りじゃないか、というのが大方の反応だろう。もちろん、街路樹を見に街に来る人はいない。街路樹は、集客力のある施設では、全然ない。

それどころか最近は、街路樹なんか邪魔だ、とさえ言われている。 秋に落葉の時を迎えると、バッサリ丸坊主に剪定されてしまう街路樹をたくさん見かける。冒頭写真はちょっと極端な例だが、これくらい無残に剪定された街路樹を見ることは少なくない。どうも、地域住民などから「落ち葉が道路に散乱して汚れる。排水溝が詰まる」といった苦情があるため、このような非情な剪定が行われるそうである。

一見もっともらしい意見だが、美しい樹木をみっともない姿にする方が、ずっと非合理であると私は考える。秋にカサカサと落ち葉を踏みしめる感覚を味わえない方が、よほど損失だ。もちろん、実際には誰かが落ち葉の掃除をする必要はある。しかし多くの地域ではそれくらいのことはやっていけるコミュニティがあると思うし、そうでないにしても、剪定にもお金がかかっているわけで、同じお金をかけるなら、シルバー人材センターに定期的に落ち葉掃除をお願いする方がずっと気が利いている。

でも、街路樹管理者はそう考えていないようだ。やっぱり、街路樹はどんどん剪定されていく。おそらく、あまりに立派になりすぎると電線に邪魔になるという事情もあるのだろう。こうして無残な剪定をされた街路樹は、年々貧相な姿になっていく。本来切るべきでないところを、無配慮に切りまくられるのだから樹勢もどんどん落ちる。樹は年を経るごとに立派になっていくはずなのに、そうならない。樹形が乱れていき、変な形になっていく。それでも管理者は、かえって邪魔にならなくていい、と思っているのかもしれない。

いつからこうなったのだろう。

かつて日本人は、世界でも特異なほど樹を愛する人たちだった。

日本では早くも室町時代から花木の品種改良が始まっており、美しい桜や椿、梅を生みだした。花の品種改良というだけなら、ヨーロッパのチューリップなど様々な事例が歴史に散乱しているが、高木性の花木の大規模な品種改良を行ったのは日本人だけだそうである。

また、植木屋や庭師といった専門業者が出現したのも日本が世界に先駆けており、日本人の樹木の剪定技術は、芸術すら超え、精神修養的な水準にまで到達した。盆栽はその極地である。美しく立派な樹を愛でるということにかけては、日本人は他の人々を圧するところがあったのだ。

さらに、日本語では神を数える助数詞が「柱」であるが、これは太古の昔、樹そのものが神と見なされたことの名残と考える人もいる。神社には必ず「参道」があり、参道には立派な神木が連なっていることが普通であるが、私の考えでは、拝殿や本殿よりも参道の方こそ神社の本体で、聖なる樹の連なる道を歩むという行為が、神社の聖性の本質であると思う。

また、幕末に江戸を訪れた外国人たちは、江戸の街がたくさんの樹に覆われ、あまりに田園的であることに驚き、同時にその美しさに魅了もされた。ヨーロッパの街というのは、森を切り拓いて文明を打ち立てた記念碑的なところがあるが、江戸の街は自然と融和して周りの田園との境がなかったのである。この外国人たちは江戸の街で夥しい数の園芸植物が売られているのを見つけ、買い漁って本国に送った。巣鴨や染井(駒込)は、当時世界最大の花卉・植木栽培センターだったそうである。

このように我々の先祖は、樹木を愛で、それを緻密に管理し、街並みに活かし、また信仰もしてきた。そうした樹との付き合い方は、今の世の中ではほとんど失われてしまったように見える。無残に剪定された街路樹は、その象徴かもしれない。

しかし今でも、我々は立派な樹の下に憩うことを忘れてはいない。縄文杉の前に立てば、それは未だに我々の神であると多くの人は感じるだろう。そんな大げさなものでなくても、立派な樹があるというだけで、そこは何か特別な場所になる。大学のキャンパスには大概立派な並木道があるものだが、大学で学んだことの内容は忘れても、並木道の木陰を歩いた感覚はずっと後まで残るものである。

これは、商店街でも当てはまる。六本木ヒルズ、東京ミッドタウン、丸の内再開発といった近年の東京の大規模再開発事業を見ても、感じの良い街路樹を配置していない事業は皆無である。もちろん、これらの再開発事業において、街路樹が本当に活かされているかというと程度の問題はある。飾り程度の部分もあるだろう。しかし、どんなスタイリッシュなデザインのピカピカのオフィスや、名のあるデザイナーの洒落たテナントがあろうとも、そこに樹の一本もなければなんとなくサマにならないのはなぜか、というのはもっと深く考えてよい問題だ。

東京ですら、街路樹が本当の意味で立派な景観をつくっている商店街というものは少ない。有名なところとしては、原宿の表参道のケヤキ並木くらいだろう。これは文字通り明治神宮の参道であるので、商店街の街路樹というには不適切かもしれないが、この原宿という街に海外のハイブランドが軒を連ねている一因は、このケヤキ並木にあるのではないだろうか。逆に言うと、原宿からケヤキ並木がなくなってしまったら、ただのゴミゴミした街になってしまうかもしれない。表参道の品格を支えているのは、何よりもあの立派なケヤキ並木なのだというのが私の仮説である。

というわけで、加世田の本町商店街を原宿にするのは不可能でも、街路樹を立派にしていったらどうか、というのが私の提案なのだ。

幸いに、既に本町商店街には電柱がなく、街路樹が自由に伸びるスペースがある。今はプラタナスが植わっていたと思うが(間違っていたらすいません)、わざわざ植え替えなくてもこの管理方法を変えて、立派にしていくというだけでも随分変わると思う。プラタナスも古木になるとかなり大きく立派になる樹である。

そんなことで街が活性化するわけないじゃないか、と思うかもしれない。実際、鹿児島市内の大門口通り(金生通りの先)にはとても立派な街路樹があるのに、人通りはまばらである。確かに、立派な樹があるところに人通りがあるのなら、山の中が人だらけになるはずである。いうまでもなく街路樹はそれだけでは人の流れを変えないし、樹はまちづくりの主役ではない。主役はあくまで人間である。だが、先ほど述べたように、どんなに立派な施設があってもそこに樹の一本もなければそこは完全ではないのである。樹は主役を引き立てる重要な脇役なのだ。

もっと正確に言えば、街路樹は、場の雰囲気を左右する存在だ。それあたかも、「あの人がいるとなんだか場がなごむよね」というあの手の人間のようなものだ。それだけで何かを生むわけではないが、それがあることで「場」の未来が明るくなるのである。立派な街路樹を持つ街は、それだけで品格があり、そして品格ある店を呼び寄せる。街路樹だけでは経済政策にならないとしても、街路樹は街の可能性を広げるものだと思う。実際、私は大門口通りにだって面白い未来があるんじゃないかと思っている。なんなら賭をしてみてもいい。

合併前の加世田市は「いろは歌といぬまきの街」を標榜していた。街路樹のイヌマキも、もう少し立派に育てていくべきである。キオビエダシャク(イヌマキにつく害虫)の問題があるにせよ、貧相な街路樹は、それだけで見識の低さを露呈させているようなものだ。

街ぐるみで街路樹を立派にしてみたら、どんなことが起こるんだろうか。ものすごく面白い街になるような気がしてならない。

かつて鹿児島で実際それをしてみた企業がある。鹿児島では知らない人のいない老舗企業、岩崎産業である。岩崎産業は、そもそも戦前に鉄道レールの枕木で財をなした会社で、奄美に広大な広葉樹の森を作るなど林業が根幹の会社だった。その岩崎産業が、戦後、鹿児島の街にヤシなどの熱帯植物を植えまくったのである。

これは、鹿児島を一大観光地にするべく、熱帯っぽいイメージを作るためだったらしい。鹿児島のヤシやフェニックス(太くて大きなシダ植物)が全て岩崎産業の植林なわけではないが、国道沿いに大きなヤシを植えたのは岩崎産業が始めたことだ。今でもいわさきグループのロゴマークはヤシをあしらったものである。

たくさんのヤシが道沿いに植えられた鹿児島が、良いか悪いかはひとまず措く。しかしヤシを植えるという岩崎産業の戦略は、確かに街の風景を変え、鹿児島のイメージを従来とは異なったものへと変えたのだと思う。

もちろん、加世田が無理に街路樹でイメチェンする必要はない。でも立派な木々の木漏れ日の下で買い物できるような商店街は、日本にいくつもないだろう。もし素晴らしい街路樹の通りができたら、それだけで確固とした価値がある。

立派な街路樹を作るにはそれなりに時間がかかる。人口減少や景気の低迷で待ったなしの地方経済にとって、街路樹を整えるというようなことは、随分と悠長な、ノンビリしすぎた活性化策に見えるかもしれない。

でも待ったなしの時だからこそ、あえて百年の計を練らなければならない。激動する政治経済の荒波を、小手先の操舵で上手く乗り切ることよりも、何があっても失われない価値を作っていく方が結局は近道のように思う。

街路樹を育てるという経済政策。いかがだろうか。