2016年7月4日月曜日

「人間らしい暮らし」こそ社会が発展する原動力

(前回からのつづき)

そして、次の大問題、経済成長と少子高齢化について。

この20年、日本は慢性的な不況に苦しんでいる。ほとんど、経済成長していない。「経済成長しなくても幸せに暮らすことは可能!」という人もいるが、それは今のところ皆が皆には当てはまらない。経済が停滞して一番割を食うのは弱い立場にいる人で、経済成長しなくても幸せに暮らせるのはある程度の強者である。弱者に手をさしのべる余裕は、経済成長の中でこそ生まれる。経済成長は、まず弱者にとって必要である。

そしてより重要なことは、世界全体が総じて経済成長している中で、日本だけが経済成長しなかったらどうなるのか、ということである。日本は相対的に貧しい国になっていき、結局は全体の福祉が損なわれることになる。現代文明が限界に近づいていることも明らかで、次の文明のあり方を模索することは我々に託された重要な宿題だが、グローバル経済の中で日本だけが今「脱経済成長」をすることは現実的ではない。

何より経済成長は、環境を改善し(環境汚染がひどいのは発展途上国)、福祉を向上させ、人々をより自由にする(ことが多い)。逆に不況は、環境を破壊し、福祉を悪化させ、人々をより不自由にする。もちろん、生産活動が盛んになることで環境が破壊される面もある。でも好況の中では環境負荷が小さい生産方法を探す余裕もあるが、不況の中では(例えば不法投棄のような)違法で環境を破壊する行為が、コストダウンの為に選択されることが多くなる。

前置きが長くなってしまったが、要するに経済成長は必要なものだし、大体において社会によい影響をもたらす。そんな経済成長に、この20年見放されている不幸な国が、日本である。

なぜ日本は経済成長しなくなったのだろうか。なぜこんなにも不況が続いているのだろうか?

簡単に言えば、それは需要不足である。つまりものが売れない。売れないから、企業はコストカットを行う。どんな業種でも一番のコストは人である。だから正社員を安い非正規労働者に置き換える、リストラをする。残業代を減らして、無闇な長時間労働をさせる。そうやって不況の中でもなんとか利益を出してきた。それどころか、不況の中で「過去最高益」を更新する企業がたくさん出てきた。でもそうしているうち、どんどん人は人間らしい暮らしをできなくなった。労働者は、職場を離れれば消費者になる。でも給料がそれなりに出れば買えたはずのものが、買えなくなった。だからもっと、ものが売れなくなった。それが現在の日本が陥っている不況の悪循環だと私は思う。

これへの処方箋は(理論的には)簡単だ。労働の改善再配分の強化である。つまり、給料を増やしたり長期間労働を是正したりして消費への意欲を増やし、お金がなくて困っている人にはお金を渡せばよい。これが最大の成長戦略、景気刺激策だと私は信じる。

景気刺激策のことが話題になると、よく「大企業か庶民か」というような二項対立が語られる。でも実は大企業こそ、庶民という巨大な消費者層に頼った存在だ。

どういうことか、例えば食品業界で考えてみたらよい。大企業がどんな商品を開発しているか。100円のチーズか、500円のちょっと高級なチーズか、3000円の高級チーズか。大企業ならどんな商品を開発するだろうか。もちろん100円のチーズだ。なぜなら、高級なものは利益は大きいが、ほんのちょっとしか売れないからだ。ほんのちょっとしか売れないものを開発しても、多くの社員を支える利益を出すことはできない。だから、大企業というものは、商品開発においては実は不自由なことが多い。常に、多数派に売れるもの、万人受けするものしか開発できないからだ。要するに、巨体を維持するためには、多数派の「庶民」に依存するしかないのだ。実は、「大企業」と「庶民」は、一蓮托生なのである。

よって、庶民が豊かになることは、大企業の利益にもなる(もちろん、中小企業の利益にもなる)。法人税の減税とか、労働規制の緩和といったようなことは、短期的には企業の利益にもなるが、それは本質的には成長のキーにはならない。企業が成長する唯一のキーは、需要が伸びること、それに尽きるのである。そのためには、庶民が豊かにならなくてはならないのである。

だから、まずは労働の改善が必要だ。無闇な残業をなくす、それだけでどれだけの需要が喚起できるか。早く帰れれば、友人と食事やお酒を楽しんだり、趣味にお金を費やす余裕もできる。無理なく安定的な働き方ができるようになれば、確実に消費は伸びると思う。一方現政権は、労働規制を緩和しようとしている。いわゆる残業代ゼロ法案である。これは、経済成長とは逆の道だ。

そもそも、日本の労働基準法は既に蔑ろにされている。労働基準法という最低限の基準すら守っていない企業は多い。これをしっかり守らせるべきだ。そのためにはどうするか。ここはちょっと難しい。労働基準を守らせるためには、結局は労働組合を強化しなくてはならないのだ。でも日本の労組というのは構造的に弱いものになっている。というのは、企業内に労組があるという事情がある。企業内に労組があるということは、企業と労組が共同体になっているということである。企業が倒れれば、労組も無くなる。これではストも団体交渉もできたもんではないのである。

ヨーロッパでは、産業別に労組がある。企業とは独立して横断的な労働組合が設立されているのである。だから強い交渉権があるのだ。このように、基本的に企業と独立した労組を日本でも育てていくことが必要だと思う。特に、企業内労組の弊害として、交渉力の小ささもあるが、そもそも労組が存在しない企業もあるということもある。だから弱い立場で働かざるを得ない人ほど労組に頼れなかったりする(そういう人が働く弱小企業には労組がないことがある)。労働法規には詳しくないので具体的な提言はできないが、企業に労働法規を遵守させるには労働者の声を強くする以外にはないのだから、労働組合を構造的に強いものにしていくことが求められるだろう。

連合(日本労働組合総連合会)を支持団体にしている民進党は、基本的には「労働者の党」になるべきだ。しかし連合そのものが、これまでの複雑な経緯や内部事情を抱えていて、正常に機能しているようには見えない。それどころか、連合の存在そのものが、新しい時代の労働組合の誕生を阻害している面すらあるのではないかと思う(私の想像です)。今の時代に労働者の権利をどうやれば守れるか、そこから出発して仕組みを作り直していくべきだ。

そして、再配分の強化もしなくてはならない。人間は、生まれながらにして平等ではない。どんな時代にどんな両親の下に産まれてくるか、それだけで一生のほとんどは決まる。こんな不公平なことはないのである。そして、何も策を講じなければ、その不公平はどんどん拡大する方向に進んでいく。豊かな人はより豊かに、貧しい人はより貧しく。教育すら、その拡大に荷担してきている。東大に進む若者の親は、多くが豊かな人である。かつて教育が果たしてきた階級上昇の機能は、もはや麻痺状態にある。

だから、再配分が必要だ。再配分によって、公平な社会を作っていかなくてはならない。しかし再配分は、弱者保護の意味合いだけではない。偏りすぎた富を分配することは、豊かな消費社会を作っていくことにもなるのである。1人が10億円持っていて、99人が100万円しか持っていない社会より、100人が1000万円ずつ持っている社会の方が、多様な消費が行われ、より多くの貨幣が流通する(売ったり買ったりでお金が動く頻度が高くなる)。つまり極端に富が偏った社会よりも、平等な社会の方が経済成長する可能性はずっと大きい
 
では、再配分が必要だとしても、その原資は何にすべきか。まず一つは、前回書いたように不公平の温床となっている年金の改革をする。でもやはり本丸は税制である。特に日本の法人税法(租税特別措置法)はめったやたらに複雑で、ある程度以上の大企業だと悪気がなくても節税がどんどん可能な悪法である。税制を簡素化して各種の優遇措置をなくし、帳簿上のやりくりで払うべき税金が免除されてしまうような事態をなくすことだ。(でも個人的には、法人税は最初から無税にして、自然人への課税を非常に累進的にするのがこれからの合理的な税制だと思う。)

また、これは社会保障関係費の改革そのものでもあるが、税と社会保障を一本化するべきだ。つまり、健康保険とか年金を「社会保障費」として個別に集めているのを辞めて、徴集を税に一本化するのである。もっと単純にいうと、社会保障費の徴集は厚労省の所管になっているが、これを国税庁に移管する。税も社会保障も再配分の一環なので、個別に集めるよりも一本化した方が合理的に制度が設計できる。この一本化の大きなメリットは累進性を高められることで、社会保障費は今さほど累進的でないので、これをかなり累進的にして再配分の要素を強めることが必要だと思う。

こうして、生活に困っている人の数を少なくする。世の中では生活保護の不正受給だなんだと、再配分への風当たりは強いが、私は逆に生活保護はもっと受けやすくするべきだと思う。それが公平な社会の実現でもあり、同時に経済成長にも繋がると思うからである。

さて、ここまで読めば、もう書かなくても分かっていると思うが、経済成長に必要な対策と、少子高齢化対策はかなりの程度が共通している。労働の改善(ワークライフバランスの改善)と再配分の強化、これは少子化対策そのものである。高齢化対策の方は必要なことがちょっと違うが、これは結局はお金のやりくりの話になるので、大問題なのは少子化の方である。

既に高度経済成長期から出生率は低下してきており、景気のよしあしだけが少子化の原因ではないし、景気が上向きになったからといってすぐに出生率が上昇するとも考えられない。人々の価値観やライフスタイル、そういうものの変化が少子化を招いている面もある。しかし経済的な理由で結婚や出産ができない、遅れる、と言う人も多い。少なくとも、経済的な面での安定がなくては、価値観やライフスタイルが仮に昔に戻ったとしても少子化は改善しないだろう。

結局、経済成長でも少子化でも、改善するには「人間らしい暮らし」ができるようになること、これだと思う。美味しいものを食べ、友人と遊び、趣味を楽しみ、家族で団らんする。これがあたりまえの「人間らしい暮らし」である。この20年の不況が破壊してきた当たり前の暮らしだ。これを取り戻さなくてはならない。要するに「人生を楽しむ」。それが消費に繋がり、人と人との出会いに繋がり、社会が発展していく原動力になる。「人生を楽しむ」というと随分お気楽な題目だけれども、これがなかったら「社会」そのものが存在している意味がない。

これまで、財政再建、経済成長、少子化という内政面について長々と述べてきた。一方で、外政面についてはいろいろと難しいこともある。しかし、国というのは内部から瓦解しない限り、国際的な紛争によってはなかなか崩れないものである。恐れるべきなのは、隣国の脅威とかテロではない。それよりも、「人生を楽しむ」ことができなくなりつつある社会の方だ。個人の楽しい人生が存在しなくなったら、その国は経済成長など絶対にできない。財政再建など夢のまた夢である。国家を強力にするには、まず個人の人生が充実していなくてはならないのである。国家か個人か、という二項対立は存在してはいけない。常に個人が優越するべきだ。個人の人生がなかったら、国家は存在しない。

かつて米国のジョン・F・ケネディ大統領はその就任演説で「国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを考えようではありませんか」と述べた。それに対して私ならこう答える。「私が国のためにできる一番のことは、自分の人生を充実させることだ」と。

今回の選挙から投票権が18歳からに引き下げられる。若い人たちは賢いから言われなくても分かっていると思うが、「自分の人生の充実」が、国政を見る視点だ。「自分」を大切に思ってくれるのは誰なのか。それを見極めて投票所に足を運んで欲しい。

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