2015年9月29日火曜日

不屈の松尾集落——棚田を巡る旅(その4)

旅は最終目的地、熊本県あさぎり町須恵の松尾集落へ。

ここの集落には棚田はない。棚田の研修なのに最後に見るのは棚田ではなく、鳥獣害の防除についてだ。

この松尾集落もまたすごいところにある。市街地からの距離はさほどでもないが、つづら折りの坂道をぐぐっと登ったところにあり、急傾斜地ばかりで集落内に平地が少ない。傾斜の激しいところには栗、やや緩やかなところは茶や梨、そして耕作が困難なところにはワラビが栽培(勝手に生えているのを収穫しているだけかも?)されている。村を見下ろす山一つが集落の農地、という感じで意外にも農地は多く計17ヘクタールもあるという。

松尾集落の取組で注目されているのは、これらの農地を守る鳥獣害防止の電牧柵の設置である。

近年鳥獣害がどこでもひどくなってきて、柵の設置やその共同化などは多くの地域でやられている。松尾集落もシカ、イノシシ、サルの被害を防ぐために柵を設置していたが思うように被害が軽減しない。そこで集落でよく話し合って効果的な設置方法に変え、見事鳥獣害を激減させることに成功したのである。こうして書くと普通の話なのだが、松尾集落は検討から設置に至るまでの作業を非常に合理的かつ実直にやっていて、そこが他の地域と少し違うところだ。

具体的には、まず被害状況を詳細に調べた。どこからイノシシやシカが入りやすいか。どうして柵を設置しているのにそれが破られるか。それをマッピングして専門家にも意見を仰ぎ、どのような防除が効果的か調査した。そして守るべき農地の優先順位を決め、農地の団地化を行った。それまではなるだけ広い範囲を柵で囲うことを考えていたが、むしろ狭く囲った団地を何カ所もつくることにした。こうすることで、柵が破られた場合もどこが破られたか特定しやすくし、また団地ごとに責任者を定めることで管理の手を届きやすくしたのである。

柵は全額補助で手に入れた。つまり集落の負担はゼロ円。だが設置は自分たちでしなければならない。柵は現物支給で、年度末までに設置検査があるので短期間で設置する必要がある。そこで学生ボランティアなども動員して作業は一気に行い、2015年までの3年間で総延長6キロもの柵を設置した。このような取組で鳥獣害をほとんど防止することに成功したのである。

さて、この松尾集落のすごさは、集落民がたった4戸9人しかいない中でこうした取組をしているところである。そのうち半数はお年寄りで戦力外なので、実質5人(!)くらいでやっているわけだ。まず、たった4戸で集落機能が維持されていること自体がすごい。

そして、鳥獣害とは関係ないが、松尾集落では毎年「桜祭り」というイベントをしていて、これには3000人から5000人もの人出があるという。このお祭りは集落にある「遠山桜」という桜を大勢の人に見てもらうためにやっているもので、実行委員会形式を取っているので実施メンバーは集落民だけというわけではないものの、こんな小さな集落が5000人も集めるイベントをやるというのがビックリである。

松尾集落がこうした活動ができるのは、「中山間地直接支払制度」のお陰でもある。 「中山間地直接支払制度」というのは、大雑把に言うと、傾斜地など耕作に不利な農地をちゃんと維持していくなら面積に応じて補助金をあげます、という制度である。松尾集落はたった9人の集落でも農地は17ヘクタールもあるので、一年あたり200万円くらいの補助金が下りる。これを活動資金にして少人数でも前向きな取組ができるのである。

しかし本質的には、集落への愛情、というようなものが活動を支えている。

そもそも、松尾集落の鳥獣害対策の特色はその合理性と効率性にあるのだが、このような不利な農地で耕作を続けて行くこと自体は非合理であり非効率的である。今の時代、もう少し生産性の高い農地に移動していくことも不可能ではないし、集落に専業農家は2戸しかないので農地の維持に高いコストをかけなくてはならないわけでもなさそうだ。

どうしてここまでして、たった4戸でこの耕作に適さない農地を維持しているのか、自治会長さんに聞いてみた。

「この集落は、昭和29年に開拓入植でできた集落です」自治会長さんがそう話し始める。

発端は須恵村がやった農家の「次三男対策事業」。要するに相続する農地がない農家の次男三男を募って、近場の山を開墾させて新天地を作った。そうやって8戸の農家が入植したのが松尾集落の起源だという。今の人たちはその2世。開墾にも苦労したが、村の役所の人も随分苦労したらしい。それで2世は親たちから「俺たちの受けた恩を忘れないでくれ」とことある事に聞かされて育ったらしい。そして親たちが苦労して開拓したこの地を守っていくことがその期待に応えることだと、2世の人たちは考えているんだそうだ。

私はこの話を聞いて衝撃を受けた。こんな不利な農地を開墾させるなんて、普通なら「こんな山奥に追いやられた」と被害者意識を持ってもおかしくないくらいなのに、開拓入植1世は新天地を与えられたことを感謝し、2世はその気持ちを受け継いで、不合理・非効率な農地の維持に取り組んでいるのである。ほとんど「シーシュポスの岩」を押し上げるような取組に…。

それで、たった4戸の限界集落になっても「俺たちの代で松尾集落を終わらせるわけにはいかない」と意気込んでいる。高齢化で耕作が難しくなった農地があれば集落で共同耕作する農地としてなんとか耕作放棄地化しないようにしているし、それもできなくなればワラビ園にしている。鳥獣害防止は合理的なやり方をしているが、それ以外はほとんどド根性の世界だと思った。

この集落の様子は、日光の棚田とか、鬼の口の棚田とは随分違うように見える。棚田の維持は景観の面の価値が大きいことが多いが、松尾集落の農地はキレイな景観というわけではない。もちろん観光的な価値もほとんどない。先祖伝来の農地というわけでもなく、せいぜい親世代からの農地であって、歴史的・文化的価値もない。それでも、松尾集落の人たちはその農地を大事に思っている。

どうしてなんだろう?自分の親が苦労して切り拓いた農地だから、という説明は、何か納得できないところがある。親が苦労してつくり上げたものをすげなく捨ててしまう子どもはいくらでもいる。むしろそれが普通で、親とは違った面で発展して行こうとするところに世代交代の意味があると思う。親と同じ苦労をしたがる子どもというのはかなり変わっている。

私は、未だにその答えがよく摑めないでいる。しかし一つ言えることは、松尾集落が「開拓者精神」でつくられた強いアイデンティティを持っているということである。たった1世代の間にこの集落は、困難を切り拓いていく精神と、村を見下ろす圧倒的な立地とで、我こそ松尾集落なり、という個性を獲得したようだ。松尾集落の人たちが失いたくないのは、一つひとつの農地というより、そういう強固なアイデンティティなのではないか。もっと楽な仕事や生き方があるとしても、それをしないのが松尾集落の魂なのかもしれない。

(つづく)

2015年9月21日月曜日

一勝地の温泉宿から——棚田を巡る旅(その3)

研修の宿は、球磨川の支流のほとりにある、球磨村の一勝地温泉「かわせみ」。温泉宿自体が棚田の上にあるという、棚田の研修としては出来すぎた立地である。

ここ「一勝地(いっしょうち)」は、縁起のよい地名であることから、一勝地駅の切符が受験生のお守りになったり、駅近くにある「一勝地阿蘇神社」で勝負の験担ぎをするといったことが行われていて、一種のパワースポット的に扱われている。

しかし地元の人に聞いたところ、「一勝地」は元は「一升内」と書いたそうだ。これは鎌倉時代にこの地を治めた地頭の一升内下野守に由来するらしいが、「一枚の田んぼから一升の米しか穫れないような小さな田んぼが多い」ということが語源であると考えられている。これが縁起のよい「一勝地」に変わったのは明治の頃で、「一升内」では意味合いが悪すぎることから、敢えて縁起のよい字を選んで改めたのだそうだ。

その「一升内」の地名はダテではなく、確かにここらには狭い田んぼがすごく多い。そして温泉宿から歩いて15分くらいのところには、これも日本の棚田百選に選ばれている「鬼の口棚田」がある。

「鬼の口棚田」は研修先ではなかったので説明は聞けなかったが、後から調べたところによれば「日光の棚田」のような特別な取り組みはしておらず、地域の昔ながらの小規模耕作農家によって守られているそうである。

「特別な取り組み」はなくとも、この棚田はよく守られていて、ざっと見たところ荒れているところがない。どの田んぼもしっかりと耕作されていて、美しい。しかも、(インターネットに載っていた情報なので信憑性は低いが)ことさら棚田米とかで高級品として売られているわけでもないらしい。物産館には棚田米みたいなものは置いてあったが、少なくとも「鬼の口棚田米」を大々的に販売しているという様子ではなかった。

「日光の棚田」みたいに、活性化の取り組みによって再生した棚田ももちろん興味深いが、私はこういう地域の人々が自然体で維持してきた棚田の方にもっと関心がある。手間ばかりかかって実入りの少ない棚田を、どうして一勝地の人々は維持してきたのだろう。こんな狭い田んぼで不如意な米作りをするよりも、人吉に出て行って働いた方がよっぽど収入になるだろうに。

ただし、耕作放棄地は増えてきているそうだ。温泉宿の隣にあったゲートボール場は放棄された棚田を潰してできたものらしい。それでも、あたりにある主だった棚田にはちゃんと稲が靡いている。この地域の人にとって棚田の耕作を続ける意味はなんなのか、とても知りたくなった。

ところで、宿泊先の一勝地温泉「かわせみ」は、村営の旅館だがなかなか立派な宿である。泉質が優れているとかで遠方からの客も結構多いらしい。元は竹下内閣の地方創生事業(いわゆる一億円バラマキ)で出来た宿で、隣には「石の交流館」という石造りの立派な施設(あんまり稼働してなさそうな感じがしたが)もある。

一億円バラマキの地方創生事業は、政策効果が不明確だとか、無駄なハコモノの乱立の原因になったとか、評判がいまいちだけれども、これを奇貨として役立てた自治体には地域振興にしっかりと役立っており、今の小うるさい「地方創生」なんかよりいいんじゃないかという気がする。もちろん、バブルの頃の上げ潮の中のお金と、現在の汲々とした中でのお金は全然意味合いが違うから比較はできないが…。

そして温泉宿から不思議な工場(こうば)が見えたので何かと思って地元の人に聞いてみたら、熊本に唯一残った「椨粉(たぶこ)」の製粉工場であった。「椨粉」というのは、タブノキの樹皮などを細かく砕いて作る粉で、水を加えると粘性が大きく様々な形に成形が可能で焚いても無臭なことから、蚊取り線香などの下地材(線香粘結剤)として使われてきた。今では化学的に下地材を作れるため普通の蚊取り線香には使われておらず、高級なお香のみに使われているそうだ。

かつて熊本は、良質なタブノキがたくさん採れたことで椨粉の工場がたくさんあったらしい。山地に住んでいた人たちは、耕作地が少ないこともあり農閑期にはタブノキの枝葉を採って椨粉の製粉工場へ売りに行ったということだ。

現在では、そういうライフスタイルもなさそうだし、それ以上にタブノキ自体が輸入品になっているので椨粉の製粉工場はどんどん廃れて、熊本県にここしか製粉工場は残っていない。そしてここも、もうタブノキの枝葉を地域の人から買い入れるシステムは採っておらず、タブノキ自体は輸入品を使っているみたいである。

ちなみに多分全国で唯一だと思うが、鹿児島の大隅にある工場(実はここが経営しているところ)だけが国内のタブノキを買い入れて製粉しているということだ。私はタブノキをお香の下地材に使うということも知らなかったので、外から眺めるだけとはいえこういう工場の存在を知ったことはとても勉強になった。

こういう渓流の地というのは、今でこそ土地が狭くて耕作地が少なく、貧乏たらしく見えるが、水力がエネルギーとして重要だった頃には、意外と恵まれた土地だったとも言える。椨粉の製粉工場があったのも、渓流を利用して水車を回し、タブノキの枝葉を粉砕する大きな臼を稼働できたからである。

逆に、平地というのは広大な農地があっても動力が少なく、製粉のように大きな力を利用する産業には恵まれなかった。そこはあくまで単純な農産物生産の地であり、原材料の供給者の地位に甘んずるしかなかった。一方、球磨川は今でこそ自然がいっぱいの観光地というイメージがあるが、かつては上流で伐採した木を筏に組んで八代湾まで運ぶ林業の重要な道だったし、日本で最も早くダムが栄えて電力供給が発達したところの一つでもある。そして、豊富な森林資源と電力を使って製紙会社も栄えた立派な「産業の川」だったのである。

棚田だけでなく、急峻な山々とか渓谷とか、嶮しい自然環境というのがハンディキャップだと思うのは現代だからこそで、かつてはそれがエネルギーと資源に恵まれた「蜜の流れる土地」であった。いや、実際には、今でもそこはエネルギーと資源に恵まれているはずなのだ。とはいっても、それを活かしづらい産業システムになっているというのは事実で、椨粉を作ろうにも東南アジアからの輸入品があり、ダムはもはや撤去される時代だ。かつて球磨川が産業の川として栄えた頃とは、随分経済の仕組みが変わった。

しかし今の経済の仕組みが絶対不変のものであるわけではない。それどころか、経済の仕組みなんてものはもの凄くフラジャイルな(=壊れやすい)もので、それが健全に構築されたものであればある程どんどん変わって行く。棚田や急峻な山々が、再び「経済的に」脚光を浴びる時が来ないとも限らない。というより、既に来つつあるというような気もする。

不利な状況での遅れた農業だと思っていたものが、世の中の方が一回り逆回転して最先端の農業になってしまうことだってあるのではないか。 景観とか集落活性化だけでない、棚田の価値の転換を生きているうちに見れるかもしれない。

(つづく)

2015年9月18日金曜日

日光の棚田——棚田を巡る旅(その2)

(前回からの続き)

研修の一行を乗せたバスは球磨川を離れ、支流に分け入り、次第に山道に入っていく。ようやくバスが通れるほどの狭い道になり、バスは集落内へ。ここが目的のところか、と思ったが、バスはさらに山奥へ。

そして、バスがギリギリ曲がれるかどうか、というつづら折りの急峻な道を登り始めた。曲がるのも大変だが、登るのもエンジンの最大トルクのギリギリ。そして、そういうカーブをやっとのことで曲がったところで、案内の方がバスを止めた。「ここからはバスは進めません」

青くなるバスの運転手。こんな道をバックで戻れというのか、とどよめく車内。そこから歩いて100メートルほど登った先に、目的の日光(にちこう)集落はあった(結局、バスの運転手はカーブのところを何度も切り返してUターンできた)。

集落の様子は、日本の山奥というより、もはやマチュピチュである。 急峻な山肌にへばりついているような家々。多分、今の時代には建築許可が下りないであろう家ばかりだ(今は崖から何メートル離れるべしとかいう規制があります)。

でも家そのものは結構立派な家が多く、私の集落よりも上等な家が多いように感じた。

網野善彦がいうには、耕作地の少ない山の中だからといって経済力が低いというわけではなく、近代以前の社会においては山の中の方に交易の拠点があるなどでむしろ山手の方が豊かな場合も多いという。ここはそれを例証するような集落だ。林業景気の時に豊かになったのかもと思ったが、あるいは藩政時代から続く豊かな集落なのかもしれない。

目的の棚田は、集落からさらに標高を100メートルほど登ったところにある。全体の面積は1ヘクタールくらいで、かなり急な勾配のところに小さな石を積み上げて、本当に猫の額のような田んぼがだくさん作られている。

田んぼの耕作は、基本的に全て手作業だそうである。もちろん収穫したお米は天日干し。田植えも稲刈りも機械を使わず人の手でやる。耕耘機は使っているようだったが、もしかしたら狭い田んぼは鍬でやっているかもしれない。機械を使った方が非効率的なくらい、狭い田んぼが多い。

そしてその作業は、集落民が総出でやっているそうだ。詳しくは「日光の棚田活性会」が発信しているのでご参照ありたい。

日光の棚田は1999年に農水省によって「日本の棚田百選」の一つに認定された。が、認定後も耕作放棄地の増加は続き、遂に耕作農家は1戸のみになってしまっていた。そんな折、荒廃の様子がメディアに取り上げられ、その報道で県が慌てて活性化をてこ入れしたそうである。農林省に認定されながらそれを放置してきた無策を嗤われたくなかったのかもしれない。

その後先述の「日光の棚田活性会」が発足し、耕作放棄地になっていた田んぼの草刈りをしたり、害獣防除の柵を共同化したりして共同耕作の体制を整え、今では棚田の主な部分は田んぼ・畑になっている。

棚田で作られたお米というと高級品というイメージがあり、確かに日光でも高額で販売しているものの、売れ行きがいいとはいえず、正直赤字だという。しかし日光の方が言うには、「採算とか考えていたらやれませんね。もう農業というよりは、完全にマツリゴトです」と。

棚田で、今の時代に米を作る意味は何なのだろう、というのが私の疑問だった。これがその答えの一つかもしれない。棚田での米作りは、マツリゴト、つまり祭祀や伝統芸能みたいなものなんだと。お祭りというのは、基本的に儲かるものではない。むしろそれは消費の場であって、普段の生活でコツコツと貯めたものを一気に蕩尽することに意味がある。棚田はかつては生産の場であったが、今ではもはや消費の場なのだろうか。

でも集落内ではお祭り事として棚田の耕作をしているとしても、ただ集落が一体になって盛り上がるイベントということだけではその意味を解いたことにはならない。例えば、同じイベント事といっても、棚田の耕作は夏祭りみたいなものとはやっぱり違う。ましてや、同じイベント事なら集落で年一度の慰安旅行なんかに行く方がよほど手軽で楽しいかもしれない。どうしてそこまで苦労して棚田を耕作するのか。

やはり棚田の維持の目的は、景観の面が大きいのだとは思う。特に日光の棚田は集落の貴重な耕作の場であったわけで、きっと集落民にとって象徴的な意味がある。そこが美しく維持されていることには、情緒的なものであれ、集落民にとって大きな価値がある。「先祖が切り拓いた土地で、自分の親なんかがそこで苦労してるの知ってますから」そんな言葉も聞かれた。

でもそれならば、なぜ一度棚田は荒れたのか、ということを問わなくてはならない。農水省の棚田百選に指定されながら、荒廃が続いていったのはどうしてなのか。集落民にとって象徴的な価値がある場所なのにもかかわらず、どうして荒れるに任せていたのか。

やっぱりそれは単純なことで、単に「あえてやろうという人がいなかった」というだけのことのような気がする。象徴的な価値があるといっても、苦労は多いのに得るものは少ない仕事であり、仮に棚田再生なんかに取り組まずに荒廃したとしても、困る人も誰もいない。

「日光の棚田活性会」のリーダーは定年後に集落に戻ってきた人で、「年金で生活はできるが、何もしないというのも物足りない」というところから、このプロジェクトに力を入れているというのが実際だと話されていた。そういう、利益を度外視しても奮闘してやろうという人がいなければ棚田の再生はできなかっただろう。要するに、棚田を再生する価値とか意味があったからこのプロジェクトが動いたのではなく、動機はともあれやる気と行動力のある人がいたから動いた、というのが現実だろう。

もちろんリーダーの情念だけで集落が動くものでもない。利益を度外視してでもやりたいと多くの人が思うようなことでなければ集落全体の取組にはならないわけで、やっぱりそれだけの魅力が棚田にはあるはずだ。

一方で、利益を度外視とはいっても、ずっと赤字だったら情熱だけでは続けられない。収支が合うということでなくても、象徴的なもの以外の価値を生みださなくてはその場限りのプロジェクトに終わってしまうような気がする。

だから、棚田再生には、景観とか、祖先が切り拓いた土地への愛情とか、そういう象徴的な価値があるのはいいとして、それを何か「具体的な価値」に変換する仕組みがないとダメなんだろう。 日光の棚田の場合、その「具体的な価値」が何なのか、正直なところいまいちよく分からない。もしかしたら、この小さな集落に注目が集まるということ自体がその価値かもしれないし、棚田をきっかけにした集落の活性化がその価値かもしれない。

でも棚田があるような集落は、象徴的どころか現実的な困難にぶち当たっているところが多い。高齢化や後継者の不在、 産業の欠如、鳥獣害、空き家対策、不在地主問題などなど…。棚田のような「象徴的な」ものに取り組むよりは、もっと現実的な問題へ対処するほうがよっぽど価値が高いのではないか? 消滅の危機にあるような集落が、景観なんか気にしている余裕はあるのか?

ここが難しいところで、理屈で考えれば現実的な問題を一つひとつ解決していく方がもちろんいいのだが、理屈だけでは人は動かないというのもまた現実である。それに、こうした集落が直面している問題は抜本的な解決が難しいもので、一つひとつ取り組めば解決の道筋が見えるかというと、真面目に考えれば考えるほど絶望するようなものばかりである。

であれば、棚田のような「象徴的な」ものによって人々の心を動かし、集落の将来を考えて何かやってみようという最初の一歩を踏み出させるのはとても有効なことで、それには象徴的どころか、極めて具体的な、現実的な価値がある。要するに、棚田の維持・保全というのは一見「現状維持」に見えるがそうではなく、集落の「自己変革」の道具としても考えられるのかもしれない。

「マツリゴト」はお祭りという意味もあるが、本来の意味は「政」つまり政治である。何もしなければ老いて死んでしまう集落に、変革を催す政治の中心をつくるというのが、今の時代に棚田を耕作することの意味なのかもしれない。

(つづく)

2015年9月11日金曜日

荒瀬ダムと棚田——棚田を巡る旅(その1)

撤去されつつある荒瀬ダム
先日、棚田を巡る研修に行かせてもらった。

といっても、実は私は「棚田再生!」などには否定的である。棚田のように一つひとつの耕作面が小さくて道が狭く、大型の機械が入らないような田んぼは管理にとんでもない労力がかかる。要するにコストがかかりすぎる。タダでさえ農業は収入が低く、経営の効率化が叫ばれている現在、棚田のような趣味的・余暇的なことに農家が手を出す余裕はない。

この研修の主催者は、鹿児島の「土改連」すなわち「土地改良事業事業団体連合会」であり、まさに「生産性の高い農地の集積が大事だからみなさんご協力ください」みたいなことを言い続けてきた団体である。棚田みたいな狭隘で形の悪い農地を崩して整地し直し、四角くて広い、使いやすい農地に変えてきた(「基盤整備事業」と言います)のが土改連なのである。その土改連が、かつて破壊してきた棚田を今になって称揚しているのはなぜなのか。棚田には景観や村おこし以外の価値があるのか、そういう興味を持って研修に参加したのである。

結論を言ってしまうと、その疑問は氷解しなかったし、ますます謎が深まった面もある。というわけで、とりとめのない内容になるが紀行文的に棚田を巡る旅のことを語りたいと思う。

さて、旅は球磨川を遡っていくもので、最初の休憩が道の駅「さかもと」。熊本県八代市、球磨川のほとりにある物産館である。

この物産館から少し先に、その筋には有名な「荒瀬ダム」がある。荒瀬ダムは、ちょうど今、日本で初めての本格的なダム撤去工事が行われている。これは老朽化によるものというよりは、元の景観や環境を復活させようという意図で行われるもので、このような理由でダム撤去の決定がなされたことは画期的なことであった。

荒瀬ダムは、地元の電力をまかなうために1955年に出来た。当時、熊本には既に水力発電所があったそうだが、その電力は北部九州に送られており熊本県民は宮崎から電力を購入していたそうである。そこで、今風に言えばエネルギーの地産地消のために作られたのが荒瀬ダムだった。そこから約50年、水利権の更新という行政上の問題をきっかけにして撤去の声が上がったのだった。

ダム撤去の費用はかなり高額であり、逆にダムを使い続ければ毎年1億円以上の純利益が見込めていた。電力需要の面で存在価値が低下していたとはいえ、数字には換算できない「環境」や「地元住民の気持ち」が優先されたことは、経済至上主義者だらけの日本では誇ってよいことだろう。

しかも地元にかかっていた垂れ幕の内容が意外で、「荒瀬ダム55年間ありがとう」みたいなことが結構書いてある。撤去運動の時はたぶん「ダムが環境悪化の犯人だ」みたいな、ダム悪玉論が展開されていたのではないかと想像されるが、いざ撤去にあたってダムへの感謝が表明されるというのは住民の穏当な感覚を示していて好感を持った。なにしろ、ダムが地元のために作られたのは事実で、確かに球磨川流域の人々の生活を支えた存在だったのである。

こうして荒瀬ダムのことを長々と書いてきたのは、撤去されるダムがこれから見る棚田の情景と重なったからだ。 ダムも棚田も、元々は経済的に重要な存在だった。今でこそ棚田は生産性が低い困った農地であるが、東アジアの各地に棚田が存在していることから分かるように、機械耕作以前の世界においては棚田は合理的な水田耕作法である。また、米もかつては今とは比べものにならないほど重要な作物で、江戸時代には米の石高が経済力そのものを示したし、明治維新後にも何をおいても米を作ることが求められた時もあった。

しかし時は移り、ダムも棚田も時代に合わなくなった。依然として細々と続けていくことはできても、それよりももっと効率のよい方法があるわけで、敢えて維持しなくてはならない理由がなくなった。それどころか、人の手が入る前の自然に戻す方がなおよい、という考えも出てきた。

そして、ダムは撤去された。

だが逆に、棚田は今になって見直されている。

ダムと同じように考えれば、棚田も自然に戻す方がよいように思う。棚田が経済的な役割を終えたのなら、樹が生い茂る山の景観へと戻していくべき、ということにならないか。その使命を終えたものを、敢えて延命する必要はないのではないか。

荒瀬ダムの景観は、そういうことを考えさせられた。

しかし当然、ダムと棚田は違う。ダムは自然環境に負荷を掛けるが、棚田は生物多様性を高める。ダムは特定の企業の利益になるが、棚田で儲ける人は(僅かな例外を除いて)いない。でも決定的に一番違うのは、ダムは醜く、棚田は美しい、ということだ。

この問題の本質を理解するには、経済とか環境とか、そういうことは二の次で、きっと、「美」とは何か、という問題を考えなければならないのかもしれない。

(つづく)

2015年9月2日水曜日

鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか

『薩摩見聞記』より「村落女子」
先日鹿児島県の伊藤知事が「女子にサイン、コサインを教えて何になる」と発言した問題に関してちょっと思うことがある。

「鹿児島は男尊女卑の牙城だ!」と他県民から思われていて、実際にちょっと男尊女卑的な部分もある。私の祖父にもそういう面があって、奥さんや子どもには質素なご飯を食べさせながら、自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいたとかいうから、まあ男尊女卑だと言われても仕方ない。

そういう「女、子どもは黙っとれ」的な人がいるにしても、鹿児島は昔から男尊女卑の風土だから、とひとくくりにされるのもあまり気分がよいものではない。鹿児島の男女の力関係が「男尊女卑」の一言で片付けられるのには違和感がある。

男尊女卑的な実情(女性議員の数がかなり少ないとか)があるにしても、本当に鹿児島には男尊女卑の「風土」があるのか。男尊女卑の知事を生んでしまう必然性があるのか。つまり、鹿児島は歴史的に男尊女卑の「文化」があったのであろうか。

こういう時に参照できるのが『薩摩見聞記』という本である。この本は以前にもちょっとだけ紹介したが、明治中期頃の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料で、新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任した本富 安四郎という人が書いたものである。本書は、本富が「鹿児島って変わってるなあ!」と思うところを記したものであるから、他県と比べ男尊女卑が激しければ必ずその記述があるはずだ。

だが、明治の頃の鹿児島は決して男尊女卑な土地柄ではなかったらしい。それどころか、夫婦関係についてはこんな記述がある(口語に訳した。原文は文語)。
「男女間の愛情も厚い。婦人は従順でよく夫に仕え、夫もまたこれを愛す。妻が病気になると夫は妻のために親切に介抱して、もし妻が死ねば夫は日々お墓参りをして花を供える」
ここに描かれる夫婦関係は、「女は黙ってついてこい」的なものとは随分違う。また、現代の鹿児島でもお酒の席で女性に給仕させるということは当然多いのだが、当時はそうでもなかったらしくこんな記述がある。
「男性も一通りの料理の法を心得ていて、宴会などの時も女性の手を借りないことが多い」
とのことである。自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいた祖父に聞かせてやりたいものだ。でも実は、今でも鹿児島では「男子厨房に入らず」というようなことはなくて、意外に料理好きな男の人が多い印象がある。私自身も料理は結構好きだ。

ちなみに本富は鹿児島の女性を随分褒めていて、
「その容貌を見れば明眸皓歯で瀟洒な人や、豊満艶美で温厚な心持ちを持っている人が多い」
として
「とはいっても他郷の人に比べると愛嬌があるというより凛とした面持ちがあって、姿勢は正しく血色もよく、都会にいるような蒼顔柳腰(青い顔をしてなよっとした)の美人は少ない。むしろ強健でよく働き、自ら薩摩婦人という一種の気概がある」
しかも
「彼女らは男性のように乱暴や不規則(規則を守らないことを指していると思われる)はせず、また並の婦人のように家から外に出ない無職的な生活もしない。よく外に出て作業をし、相当の労働をしている」
だそうである。この頃の鹿児島の女性は、美しく気概があり、よく働くという随分デキる人が多かったようである。いや、私は今の鹿児島もそういうテキパキっとしたデキる女性が多いように思っているのだが。

このように、少なくとも明治の頃の庶民社会では、鹿児島は他県と比べて特に男尊女卑がひどいということはなかった。それどころか、女性も生き生きと働いていた様子が窺える。実は鹿児島だけでなく、かつては全国的に農村部ではかなり男女は対等な立場にあった。

というのは、農作業というものは男性だけでするものではなく、女性もその重要な部分を担っていた。例えば「早乙女(田を植える乙女)」という言葉があるように、田植えは女性が主役になる作業で、テキパキと田植えをこなす女性が、なかなか田植えが進まない男たちを「あんたらまだ終わってないの〜」とからかっていた、というような話がある。農業は力任せの作業の他にも、時にリズムが大事だったり、精密さや気遣いが大事な作業があったり、いろいろな場面があるから常に男性が優位とは限らない。

このように、女性も仕事の重要な部分を担っていたから、昔は農村部では男女は対等だったのである(「平等」ではない。役割分担はあった)。男尊女卑の価値観が遅れた農村的なものだというイメージは全くの誤りだ。

そして先ほどの『薩摩見聞記』でも女性が「相当の労働をしている」とあるように、経済的に男性に従属していなかったというのが「男女が対等であること」に大事である。逆に言えば、男尊女卑の根幹には、女性を経済的に男性に従属させる社会構造がある

さて、鹿児島の男尊女卑の風土が歴史的なものでないとしたら、いつから鹿児島は「男尊女卑の牙城」になってしまったのだろうか?

これには社会学的な考証が必要になってくるので私の手には負えないが、憶測でものを言わせてもらえばそれは日露戦争(明治37年)あたりからではないかと思う。戦争はどうしても男性が中心になり、女性は従属的な役割にならざるをえない。さらに日露戦争は勝利に終わったために、従軍帰還兵は「日本に勝利をもたらした兵隊さん」として随分チヤホヤ(?)されたらしい。地域の顔役のような人ですら、帰還兵の若者に頭が上がらなかったというような話も聞く。

また、海外どころか他県に出るということも稀だった明治時代に、海外まで派兵されたり、日本全国を軍艦で回ったりという経験をした従軍者は、外の世界への目を開かされ、土地の境界の1尺や2尺で争っているような田舎の文盲の人間が、随分遅れたものとして目に映っただろう。それに、文字通り生死の境という極限状況をくぐり抜けてきたという自負もあったはずだ。そういう帰還兵が、奥さんにとった高飛車な態度が鹿児島の男尊女卑の起源ではないか、というのが私の空想である。

もちろん、その後のサラリーマン社会化で男性が稼いで女性が家を守る、という形になっていったことの方が影響は大きく、女性が経済的に従属的な存在となっていったことで男尊女卑の社会になっていったのだろう。

ただ、それは全国的な現象なので鹿児島の特殊性を説明する材料にはならない。それよりも、日清・日露・太平洋戦争という戦争の時代が鹿児島の社会生活のあり方を大きく変えたということの方がまだ説明がつくのではないか。もちろん戦争の時代も全国的な現象であるが、どうも日露戦争というのは鹿児島が深くコミットしていて、他県と比べ鹿児島の社会にはインパクトが大きかったように見える。

例えば、バルチック艦隊を破った元帥海軍大将・東郷平八郎は鹿児島人だし、 元帥陸軍大将・大山巌も鹿児島人、他にも大幹部クラスとしては黒木為楨野津道貫川村景明らが鹿児島出身であり、日露戦争の陸海軍において鹿児島は相当の存在感がある。大幹部クラスでこうだから、そうした大幹部に憧れて入隊していった鹿児島の若者の数も相当だったはずだと思う。

鹿児島の神社には大抵「日露戦争戦没者慰霊碑」があって、これは普通のことだと思っていたが、他県でもそうなんだろうか?この「日露戦争戦没者慰霊碑」の多さは、鹿児島の社会が日露戦争で受けた大きな衝撃の証左のように思える。

それはともかく、私は鹿児島の古くからの姿はかなり変わってしまったのではないかと思っている。いや、『薩摩見聞記』を見ればわかる通り、変わっていることは間違いないし、むしろ社会や経済の仕組みが随分変わったのに鹿児島の人の価値観が変わっていなかったらそっちの方がおかしい。

でも、『薩摩見聞記』に記された鹿児島の姿はまだ残っているような気もしている。「男尊女卑の牙城」としての鹿児島より、こちらの方が鹿児島県民にしっくり来るんじゃなかろうか。「男尊女卑の牙城」とか言われると、確かに男が偉そうにしているが女性も相当やり手が多い鹿児島の実情とはちょっと違う、という気がしてならない。

明治維新からもうすぐ150年、ここらで本来の鹿児島人の姿に戻ってはどうか。