2015年3月27日金曜日

「椿油」で生きがいづくり

以前ちょっと愚痴を書いた「百寿委員会」について。

百寿委員会は通り一辺倒の役所の審議会とは全然違って、委員の発奮を期待するプロジェクトなので、もう活動は具体的レベルに入って来つつある。

私は、「椿油」のグループに配属されて、椿油を活用した生きがいづくりなどの支援に取り組んでいくことに(行きがかり上)なった。

ちなみに、これは希望を出して配属してもらったもので、勝手に割り振られたわけではない。私自身としても、食用油の世界にはいろいろと思うことがあり、この活動を進める中で油の勉強になるのではないかと思って期待しているところである。

その「椿油」だが、現在南さつまではいくつかのグループが細々と作っているらしい。その中で今回の核となるのは金峰の田布施地区のお年寄りがやっている活動で、百寿委員会の役割としては、これをモデルケースにして南さつま市内の他の地区にも広げたり、あるいはこの活動に田布施地区以外からも参加してもらったりして、参画する人を増やしていくことにあるのだと思う。

というのも、椿油作りの一端を覗かせてもらったが、栽培されているものでなくて道ばたに落ちている種を拾ってくるわけなので、その品質がバラバラであり、それを一粒一粒検品して選別しなくては良質な油がとれないのである。この、小さい種をよく見て選別する作業は、目と手先を使うためお年寄りのボケ防止にもなるし、何人かで世間話をしながらそういう作業をするのはけっこう楽しい。さらには、椿油が売れて手間賃が出れば、同じ生きがいづくりでも、グラウンドゴルフのようなものとはまた違ったやりがいがあると思う。

そういうわけで、この椿油作りを市内にもっと広めたらいいんじゃない? という話になった(と理解しています)。

それで椿油の試食会に先日参加して、初めて椿油の料理を味わってみた。

椿油というのは、化粧品(鬢付け油)としても高価だが、食用油としては極端に高価である。例えば、鹿児島の鹿北製油の椿油は、インターネットではたった25gが1200円くらいで販売されている。 こんなに高価では、普通の料理にはとても使えない。だがその品質の高さから、高級料亭などでは使われることもあるらしい。

そういう高価な食用椿油を、試食会ということでドボドボ使って天ぷらまで食べさせてもらった!(ちなみに料理も自分たちでしました) それで、今まで漠然としたイメージしかなかった椿油のことがだいぶわかってきたような気がする。

椿油の食味を一言でいうと、「全くクセのない油」である。極めてサラっとしている。天ぷらもカラッとしていて油ぎっておらず、全く胃もたれしない。1日経ってもべちゃっとならず、(カラッとはしていなかったが)品質の低下が小さかった。

カルパッチョに使うのもオススメで、口の中が油でヌルヌルする感じがなく魚との相性がよい。意外なところでは卵焼きもよかった。うまく食味の説明ができないが、しっとりふんわりしていて美味しい卵焼きができていた。

しかも驚いたのは食後に食器を洗った時で、油がついたお皿もヌルヌルすることなくサラッと油が落ちるではないか。成分的なことはよく分からないが、ともかく油ぎった感じが全くない高品質油であることは了解できた。

だが逆に言うと、クセがなさすぎて、言われないと「椿油を使っているね」と分からないのが欠点である。要するにオリーブオイルなどと違って「味」がない。味がないものはなかなか普及するのが難しそうである。

椿油の生産・販売を企業的な活動としてやっていくとしたらかなり難しいが、生産するお年寄り(だけとは限らないが)の非営利的な生きがいづくりとして取り組むなら将来性がある。高品質さとかではなく、「南さつまのお年寄りが、一粒一粒選んだ椿の種で絞った椿油」というプロセス自体を主役にして、まずは情報発信から始めて活動の裾野を広げていったら面白いのではないかと考えている。

2015年3月22日日曜日

「加世田のかぼちゃ」とは

先の記事で、「加世田のかぼちゃ」のチラシをデザインしたということをお知らせしたのだが、そこでも触れたように「加世田のかぼちゃ」は一体どういうものなのか、ということはこれまで意外と説明されていなかった。

というわけで、参考までにその部分を紹介しておく。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

加世田のかぼちゃ

 Policy “普通のかぼちゃ”をこだわりの栽培で特別なかぼちゃへと変える

「加世田のかぼちゃ」は品種名ではありません。品種の中心は一般的なかぼちゃである「えびす」。その“普通のかぼちゃ”をこだわりの栽培によって美味しく育てたものが「加世田のかぼちゃ」なのです。

1 積算温度に基準を設け “熟成度”をチェック

「加世田のかぼちゃ」は、畑で十分に熟成させてから収穫します。生産者が交配後の日数等を記録し、積算温度1100度という基準に達したところでサンプルを収穫、選果場で試し切りします。皮際まで熟しているか、種は充実しているかといった厳しいチェックを受けてから本収穫。そうやって担保されたバラツキのない高品質さが「加世田のかぼちゃ」の誇りです。

2 収量を犠牲にして 養分を集中させる

一蔓につけるかぼちゃの数は葉の数で決まります。しかも基本的に蔓ごとに1つずつならせて順次肥大させ、一蔓あたりのかぼちゃの数は最大でも3個! もちろん収量は減りますが少数の実に養分を集中させることで、より大きく充実したかぼちゃを実らせています。

3 丁寧な「芽欠き」で蔓の本数まで管理

かぼちゃの蔓は放っておくと縦横無尽にはびこります。しかし不必要な芽を丁寧に取り除き、蔓の本数までも管理するのが「加世田のかぼちゃ」流。このため芽が伸びるシーズンには、芽を取り除く手間のかかる「芽欠き」作業を連日行っています。

4 花の段階で選別・受粉

立派なかぼちゃに向けた選抜は、花の段階から始まります。蔓に実をつける位置も調節し揃える上、大きく優良な雌花だけを選んで受粉させています。

5 美味しいのは当たり前 その上、美しく

かぼちゃの下に透明のシートをしたり、立体栽培したりすることにより、土に直接つけずに均等に着色するようにして、キズが少なく色むらのない美しいかぼちゃが出来るのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ちなみに、一応「南薩の田舎暮らし」が請け負ったのは「デザイン」であるが、実質的にこの説明文も当方で作成したものである。「積算温度」やら「芽欠き」やら、一般の人たちにはちょっとわかりにくいんじゃないの〜と言われながら、やはりそういう言葉をちゃんと出した方が誠実で、意外と分かってもらえるのではないかという考えで上のような説明にまとめた。

また、こういう農産物紹介にはかなりの確率で現れる「農家の愛情を受けて育てられた〜」のような言葉は絶対に使いたくなかったし、同じく農産物紹介の頻出単語である「手間ひまがかかった〜」も具体性がなく独善的(たいていの農産物は手間ひまがかかるものだと思います)なので、そういう叙情的単語を使わずに、栽培の特徴を素直に伝えようとした結果でもある。

少し心残りな点があるとすれば、あくまで栽培方法だけにフォーカスしているところで、本来は「このような栽培方法のお陰で他のかぼちゃとどのような違いが生まれているのか」をより定量的に示せたらよかったと思う。この説明だと、「加世田のかぼちゃ」自体の解説というより、その栽培法の解説という性格が強い。

でも味とか食感の説明とかは、いくらやっても伝わるというものではないし、結局はこのような栽培法の力を信じていただくほかない。「なるほど、加世田のかぼちゃってそういうものだったのか!」と思ってもらえたらとても嬉しい。

2015年3月19日木曜日

「加世田のかぼちゃ」のチラシをデザインしました!

先日、南さつま市役所が「加世田のかぼちゃ」のチラシを作りたいということで、なんと「南薩の田舎暮らし」でデザインを受注した!

「加世田のかぼちゃ」は県のブランド指定を受けてから20年以上経つが、対外的に「こういうものですよ」と説明する資料が乏しく、全国的には(というより鹿児島県内でも)全然認知されていないので、そういうチラシでも作ってもらいたいと思っていたところである。

それをかぼちゃを栽培している自分が構成・デザインできるということで、受注自体とても嬉しかった。だが、こういう資料を農家自身がデザインするということはすごく珍しいことで、もしこれで「やっぱり農家クオリティだよね」と言われるようなことがあれば次に続かない。それに少額とは言え税金を使って作るものだから、納得できる水準のものを作ろうと、素人ながら「あーでもないこーでもない」と悩みながら連夜作業し、つい先日入稿したところである(正直、プロには及ばない出来ですが)。

 →加世田のかぼちゃPR小冊子
  ※データサイズの問題からだいぶ画像を粗くしています

ところで、この冊子を製作する過程でいろいろ取材し、ビックリしたことがある。それは、一応ブランド野菜であるにも関わらず、「加世田のかぼちゃ」が「加世田のかぼちゃ」として売られているところがどうやらないようなのだ!

何を言っているかというと、これはJAが集荷し、市場や相対取引で「加世田のかぼちゃ」として出荷されるわけだが、「加世田のかぼちゃ」という言葉にブランド力がないためか、実際の小売店では単に「鹿児島産」として売られているらしいのである!

市場出荷の場合、これを買っていった卸業者がどのように販売するか追跡はできないので、少数の例外はあると思うが、大まかにいって、「加世田のかぼちゃ」は市場では単に「鹿児島産かぼちゃ」として取引・販売されているのだ。

正直、このことが分かった時、生産者の一人として悲しく思った。「加世田のかぼちゃ」は知られていないマイナーなブランドなのではなく、ブランドですらなかったということなのだ。でも、そもそも「加世田のかぼちゃ」とは何かを対外的に説明してこなかったわけで、それもやむを得ないかもしれない。私もこうして資料にまとめるまで、「加世田のかぼちゃ」が他のかぼちゃとどう違って、何が特徴なのかということを、明確に認識していなかったような気がする。

そしてだからこそ、こういうチラシの意味がある。たぶんこのチラシを読めば、単に「鹿児島県産」だけだと伝わらない栽培のこだわりがわかり、他のかぼちゃと区別したくなるのではないかと思うからだ。今後、小売店などでこのチラシが共に置かれ、「加世田のかぼちゃ」が「加世田のかぼちゃ」として売られるようになることを切に願っている。

※チラシに書いた内容は、後日改めてブログにアップしたいと思います(上のリンク先と同じですが、なにせ読みにくいので)。

2015年3月12日木曜日

有機農業とフェアトレード

「絶対のこだわりがある!」というわけではないけれど、一応私は有機農業を実践している(つもり)。

以前「有機農業の是非を検証する」というやや小難しい記事でも書いたが、これは別に「安全・安心」とかのためではなく、環境の保全を念頭において取り組んでいることである。

「南薩の田舎暮らし」でも無農薬の柑橘を販売しており(認証を取らないと「有機」の文字は使えないので「無農薬」と表示しています)、味のことはさておいて、価格だけで見れば、無農薬の柑橘としてはほとんど日本最安で提供していると思う。

もちろんその価格設定は私の営業努力の足りなさと商才のなさを反映しているものであって、別に安売りしたくて安売りしているわけではない。が、一方で無農薬だからといってことさら高価格にもしたくないと思う。というのも、私は「農薬かかっててもそんなに気にしないし」という普通の人にも買ってもらいたいと思っているからである。

「多少高くてもやっぱり無農薬じゃなきゃね!」という人に買って頂くのはもちろん嬉しいが、そういう人は少数派であって、そういう人たちだけを見ていては自分の世界を狭めることになる。それに本来、農薬の使用・不使用などということは消費者は気にとめる必要がないはずだ。なぜなら、市場に流通するものはどれも安全なものであるべきだからだ。一応、売り文句として「南薩の田舎暮らし」でも今は「無農薬」を謳っているが、将来的にはそういうことを言わなくてもよいような感じにできたらいいと思う。

今の有機農産物は、とにかく「安全・安心」とか「美味しい」とか、要するに一種の高級品として販売されていることが多いので、それがなかなか広まっていかない要因の一つだろう(※)。欧州の諸国と比べ、日本では有機農業の割合がかなり低いが、「有機農産物=高級品」というイメージは日欧でどのような違いがあるのか(ないのか)知りたいところである。

ただ、価格に見合うだけの品質があれば、有機農産物を高級品として販売することにはなんの問題もない。だが以前の記事で述べたように、その価値にはまだ「イメージ」にすぎない部分もある。そこでふと思うのは、いわゆる「フェアトレード」と有機農業の類似である。

フェアトレードはよく知られている通り、発展途上国の農産物などを公正な価格・やり方で取引することで、要するに「搾取的でない当たり前の取引」である。こういう言葉があるのは「フェアトレード」でない取引が多いためで、代表的なのはカカオ豆だろう。

カカオの一大産地といえばコート・ジ・ボアールで、ここでは児童労働など劣悪な労働によって安価なカカオが生産されている。発展途上国の企業や組合にバーゲニングパワー(交渉を優位に進めていける能力)がないために、先進国の企業に安く買いたたかれ、そういう悲惨な状況に陥ったのである。

それを解消し、生産者に適正な賃金を払うため、最近では「フェアトレード」のチョコレートが販売されている。しかし搾取的な取引を行わず、生産者が十分にやっていける価格でカカオを買い取ろうと思えば、その結果チョコも髙くならざるをえない。だからフェアトレードのチョコは少し高い。では、消費者は何に対してそのプレミアム(価格の上乗せ分)を支払っているのであろうか?

フェアトレードだからといって、品質がよいわけではないし、「安全・安心」でもない。つまり消費者は、自らの便益のためにプレミアムを支払うわけではないのである。 消費者は、「公正さ」そのもののためにそれを支払っているとしか考えられない。

つまりこの場合消費者は、公正に生産され、取引されたものを使うべきだ、という社会的責任に対して価格の上乗せ分を支払っているのだと思う。すなわち、フェアトレードの商品というのは(いい意味で)消費者目線ではないのである。それは、便利な生活を享受する先進国の人間たるもの、えげつない取引で不当に安く作られたものは使うべきでない、という矜恃に訴えかけるものだ。

翻って有機農産物について考えてみる。有機農業(農産物)とフェアトレードは非常に似ている点がある。それはどちらも
  • そうでないものと比べやや高価になる。
  • 多くの消費者にとっては、そうでないものと比べ価値の違いが明確でない。
  • 利益を受けるのは、消費者というよりも生産者側もしくは環境である。
そういうことで、私は、まさに有機農産物はフェアトレードの一種として流通していって欲しいと思っている。有機農業も消費者目線でやるものではなく、あくまで持続可能な農業を目指すものだからで、環境に配慮して栽培されたものを使うことは、社会的責務であると思うからだ。フェアトレードは発展途上国の生産者に対して「公正」であろうとするが、有機農業は自然環境そのものに対して「公正」であろうとする

そういう形で流通すれば、例えば外食産業などで有機農産物を使う割合が少し増えるかもしれない(企業の社会的イメージを向上させるから)。今は、有機農産物が高価格なこともあって、ごく限られた市場しか持っていないが、CSR(企業の社会的責任)に訴えるような商品であれば、違った市場を開拓できるのではないだろうか?

とはいっても、私が有機農業のお手本にすべきだと考えるフェアトレード自体、流通全体で考えるとものすごく狭い世界である。一応市場規模は順調に拡大しているようだが、フェアトレード=当たり前の取引が「普通」になるには長い時間がかるだろう。

だが、「安全・安心なものを食べたい」「美味しいものを食べたい」という(有機農業でなくても応えられる)消費者のニーズに応えるよりも、 環境に対して「公正」であれという矜恃へと訴える方が、有機農業推進にとってはすがすがしいやり方だと、私には思えるのである。

※最大の要因は、日本の農産物の流通のしくみにあるのだと思う。