2015年9月2日水曜日

鹿児島は歴史的に男尊女卑なのか

『薩摩見聞記』より「村落女子」
先日鹿児島県の伊藤知事が「女子にサイン、コサインを教えて何になる」と発言した問題に関してちょっと思うことがある。

「鹿児島は男尊女卑の牙城だ!」と他県民から思われていて、実際にちょっと男尊女卑的な部分もある。私の祖父にもそういう面があって、奥さんや子どもには質素なご飯を食べさせながら、自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいたとかいうから、まあ男尊女卑だと言われても仕方ない。

そういう「女、子どもは黙っとれ」的な人がいるにしても、鹿児島は昔から男尊女卑の風土だから、とひとくくりにされるのもあまり気分がよいものではない。鹿児島の男女の力関係が「男尊女卑」の一言で片付けられるのには違和感がある。

男尊女卑的な実情(女性議員の数がかなり少ないとか)があるにしても、本当に鹿児島には男尊女卑の「風土」があるのか。男尊女卑の知事を生んでしまう必然性があるのか。つまり、鹿児島は歴史的に男尊女卑の「文化」があったのであろうか。

こういう時に参照できるのが『薩摩見聞記』という本である。この本は以前にもちょっとだけ紹介したが、明治中期頃の鹿児島の庶民社会を知るのに格好の資料で、新潟から教師として明治22年(1889年)に鹿児島に赴任した本富 安四郎という人が書いたものである。本書は、本富が「鹿児島って変わってるなあ!」と思うところを記したものであるから、他県と比べ男尊女卑が激しければ必ずその記述があるはずだ。

だが、明治の頃の鹿児島は決して男尊女卑な土地柄ではなかったらしい。それどころか、夫婦関係についてはこんな記述がある(口語に訳した。原文は文語)。
「男女間の愛情も厚い。婦人は従順でよく夫に仕え、夫もまたこれを愛す。妻が病気になると夫は妻のために親切に介抱して、もし妻が死ねば夫は日々お墓参りをして花を供える」
ここに描かれる夫婦関係は、「女は黙ってついてこい」的なものとは随分違う。また、現代の鹿児島でもお酒の席で女性に給仕させるということは当然多いのだが、当時はそうでもなかったらしくこんな記述がある。
「男性も一通りの料理の法を心得ていて、宴会などの時も女性の手を借りないことが多い」
とのことである。自分だけ刺身をつまんで焼酎を飲んでいた祖父に聞かせてやりたいものだ。でも実は、今でも鹿児島では「男子厨房に入らず」というようなことはなくて、意外に料理好きな男の人が多い印象がある。私自身も料理は結構好きだ。

ちなみに本富は鹿児島の女性を随分褒めていて、
「その容貌を見れば明眸皓歯で瀟洒な人や、豊満艶美で温厚な心持ちを持っている人が多い」
として
「とはいっても他郷の人に比べると愛嬌があるというより凛とした面持ちがあって、姿勢は正しく血色もよく、都会にいるような蒼顔柳腰(青い顔をしてなよっとした)の美人は少ない。むしろ強健でよく働き、自ら薩摩婦人という一種の気概がある」
しかも
「彼女らは男性のように乱暴や不規則(規則を守らないことを指していると思われる)はせず、また並の婦人のように家から外に出ない無職的な生活もしない。よく外に出て作業をし、相当の労働をしている」
だそうである。この頃の鹿児島の女性は、美しく気概があり、よく働くという随分デキる人が多かったようである。いや、私は今の鹿児島もそういうテキパキっとしたデキる女性が多いように思っているのだが。

このように、少なくとも明治の頃の庶民社会では、鹿児島は他県と比べて特に男尊女卑がひどいということはなかった。それどころか、女性も生き生きと働いていた様子が窺える。実は鹿児島だけでなく、かつては全国的に農村部ではかなり男女は対等な立場にあった。

というのは、農作業というものは男性だけでするものではなく、女性もその重要な部分を担っていた。例えば「早乙女(田を植える乙女)」という言葉があるように、田植えは女性が主役になる作業で、テキパキと田植えをこなす女性が、なかなか田植えが進まない男たちを「あんたらまだ終わってないの〜」とからかっていた、というような話がある。農業は力任せの作業の他にも、時にリズムが大事だったり、精密さや気遣いが大事な作業があったり、いろいろな場面があるから常に男性が優位とは限らない。

このように、女性も仕事の重要な部分を担っていたから、昔は農村部では男女は対等だったのである(「平等」ではない。役割分担はあった)。男尊女卑の価値観が遅れた農村的なものだというイメージは全くの誤りだ。

そして先ほどの『薩摩見聞記』でも女性が「相当の労働をしている」とあるように、経済的に男性に従属していなかったというのが「男女が対等であること」に大事である。逆に言えば、男尊女卑の根幹には、女性を経済的に男性に従属させる社会構造がある

さて、鹿児島の男尊女卑の風土が歴史的なものでないとしたら、いつから鹿児島は「男尊女卑の牙城」になってしまったのだろうか?

これには社会学的な考証が必要になってくるので私の手には負えないが、憶測でものを言わせてもらえばそれは日露戦争(明治37年)あたりからではないかと思う。戦争はどうしても男性が中心になり、女性は従属的な役割にならざるをえない。さらに日露戦争は勝利に終わったために、従軍帰還兵は「日本に勝利をもたらした兵隊さん」として随分チヤホヤ(?)されたらしい。地域の顔役のような人ですら、帰還兵の若者に頭が上がらなかったというような話も聞く。

また、海外どころか他県に出るということも稀だった明治時代に、海外まで派兵されたり、日本全国を軍艦で回ったりという経験をした従軍者は、外の世界への目を開かされ、土地の境界の1尺や2尺で争っているような田舎の文盲の人間が、随分遅れたものとして目に映っただろう。それに、文字通り生死の境という極限状況をくぐり抜けてきたという自負もあったはずだ。そういう帰還兵が、奥さんにとった高飛車な態度が鹿児島の男尊女卑の起源ではないか、というのが私の空想である。

もちろん、その後のサラリーマン社会化で男性が稼いで女性が家を守る、という形になっていったことの方が影響は大きく、女性が経済的に従属的な存在となっていったことで男尊女卑の社会になっていったのだろう。

ただ、それは全国的な現象なので鹿児島の特殊性を説明する材料にはならない。それよりも、日清・日露・太平洋戦争という戦争の時代が鹿児島の社会生活のあり方を大きく変えたということの方がまだ説明がつくのではないか。もちろん戦争の時代も全国的な現象であるが、どうも日露戦争というのは鹿児島が深くコミットしていて、他県と比べ鹿児島の社会にはインパクトが大きかったように見える。

例えば、バルチック艦隊を破った元帥海軍大将・東郷平八郎は鹿児島人だし、 元帥陸軍大将・大山巌も鹿児島人、他にも大幹部クラスとしては黒木為楨野津道貫川村景明らが鹿児島出身であり、日露戦争の陸海軍において鹿児島は相当の存在感がある。大幹部クラスでこうだから、そうした大幹部に憧れて入隊していった鹿児島の若者の数も相当だったはずだと思う。

鹿児島の神社には大抵「日露戦争戦没者慰霊碑」があって、これは普通のことだと思っていたが、他県でもそうなんだろうか?この「日露戦争戦没者慰霊碑」の多さは、鹿児島の社会が日露戦争で受けた大きな衝撃の証左のように思える。

それはともかく、私は鹿児島の古くからの姿はかなり変わってしまったのではないかと思っている。いや、『薩摩見聞記』を見ればわかる通り、変わっていることは間違いないし、むしろ社会や経済の仕組みが随分変わったのに鹿児島の人の価値観が変わっていなかったらそっちの方がおかしい。

でも、『薩摩見聞記』に記された鹿児島の姿はまだ残っているような気もしている。「男尊女卑の牙城」としての鹿児島より、こちらの方が鹿児島県民にしっくり来るんじゃなかろうか。「男尊女卑の牙城」とか言われると、確かに男が偉そうにしているが女性も相当やり手が多い鹿児島の実情とはちょっと違う、という気がしてならない。

明治維新からもうすぐ150年、ここらで本来の鹿児島人の姿に戻ってはどうか。

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