2015年5月2日土曜日

耕作放棄地と土地の私有

アボカド畑を広げよう! ということで久志へ向かう県道沿いの耕作放棄地を借り受けて開墾し、ここに100本のアボカドを植える予定である。

今、この荒れ地を借りる手はずを踏んでいるところなのだが、これはなかなか大変な仕事である。

というのも、土地を借りるためにはその管理者と交渉しなければならないわけで、まずその管理者を見つけなくてはならない。だから地元のアレコレに詳しい人などに「ここの土地を借りるなら誰に聞いたらいいですか?」と尋ね回ることになる。

でも管理が出来ていないから荒れ地になっているわけで、どこの誰が管理しているのかというのが分からない場合がかなりある。

役所に行って調べればいいじゃないか、と思うかもしれないが、役所で分かるのは土地の名義人までだ。土地の名義人は、相続の手続きをちゃんとしていなかったりして2代前のままになっていたりすることがあり、そのまま名義人=管理者であることはむしろ稀である。名義人を手がかりにして、現在の管理人を探すのは自力でやらなくてはならない。

今回も、そういう土地が一筆あった。名義人(当然ながらとうに亡くなっている)を手がかりに、大浦町のことなら何でも知ってるトシナモン(古老)に伺ったところ、親類縁故みな大阪に移住していったが、ただ一人90歳のおばあちゃんが野下という集落に残っているから、そのおばあちゃんに聞いてみろという。

さっそく家を訪ねてみると、ちょうど数日前に大阪から戻ってきたところ、というそのおばあちゃんと会うことができ、大阪にいるというおばあちゃんの弟がその土地の管理者(固定資産税を払っている)ということで、ようやく借りる算段をつけることができた。

でもタイミングが悪ければそのおばあちゃんにも会えなかったかもしれない。というのも、子どもや親類がおばあちゃんを大阪に呼び寄せようとしている真っ最中だという。おばあちゃんの家は、90歳の人が住むにはあまりに不便なところで、森閑とした杉林の中に、寂しく他の家からも孤立して建っているので、もしもの時にも絶対に誰も助けに来ないようなところである。それを心配して、大阪で面倒を見ようというわけだ。

しかしおばあちゃんは、やはり住み慣れた大浦がいいといって、数日前、半年ぶりに大浦に戻ってきたところだったのだ。こんな寂しいところでも、長く腰を落ち着けたところはいいものなのだな、としみじみと思った。

それはさておき、もしそのおばあちゃんが故郷を懐かしんで戻ってこなければ、土地を借りることが出来たかどうか分からない。

名義人から管理者を割り出す作業は役所にはできない(固定資産税を納付している人を教えることは法律上できないし、その人の連絡先を教えるなど論外である)ので、管理者に繋がる線が途切れれば、そこでゲーム・オーバーになる。

今、こういう耕作放棄地はそういう線がかろうじて地元で繋がっている最後の時代かもしれない。あと10年もすれば、名義人は3代前となってしまい、管理人が誰なのか、トシナモンでもわからなくなる。というか、そういう古いことを知っているトシナモンが死んでいなくなる。

すでに山林ではそういうことが起こっている。山林は共同名義になっている場合も多く名義人と管理人の関係が複雑なため、事実上相続の手続きができない土地がたくさんあって、塩漬けになっているところが多い。管理の責任が曖昧になってしまって適切な除伐ができなくなり、せっかく伐期を迎えた杉林が放置されているのである(もちろん、木材価格低迷のため、利益率が低くなったということがその原因であるが)。

先日、空き家については固定資産税の納付記録を(役所内部で)照合することが可能となる特別措置法が成立したが、同様のことが耕作放棄地でも必要になるだろう。そうしないと、耕作放棄地を借り受けることが事実上できなくなってしまう。

まあ、もう誰が管理しているのか全く不明な土地だったら、勝手に使えばいいじゃないか、という人もいるが、それは文明国家の土台である「法の支配」を揺るがす行為であると思う。早いもの勝ちで土地が使えるとなるとおかしなことになる。

最近できた農地中間管理機構というのも、(1)現に農地を管理している人が、(2)機構に管理を委託し、(3)集積された農地を機構が農業者に貸し出す、という形なので、今の時点で管理者が管理を放棄しているような耕作放棄地、つまり(1)が不在の土地はそのスコープに入ってこない。

それに全国的に、農地中間管理機構から土地を借りたいという人・団体はかなり多いが、機構に土地の管理を委託したいという人は少ない。要するに農地の貸し手不足という問題がある。耕作放棄地問題というと、後継者不足が原因だと思われがちなのであるが、真の原因はそれではなく、土地の所有者・管理者・利用者の間の流通の不具合であるというのが私の実感である。

これを解消するためには、農地の私有ということそのものを考える必要があると思う。戦後の農地改革で、不在地主からタダ同然で土地を買い上げ、実際にそこで耕作していた小作人に安く払い下げたのが現在の農地の私有の直接的起源であるが、もしかしたらそれと同様のことをやる必要があるかもしれない。

乱暴なことをいうと、管理が放棄された土地に関しては国が接収して安く払い下げるということが合理的だろう。しかし改めて考えてみると、もはや農地を私有する必要もなく、農家にとって必要なのはその土地の利用権のみで、自分が耕作する期間借り受けることができれば十分だ。

そもそも土地を私有するということ自体、深く考えれば難しい問題で、例えば「空」は売り買いすることができないのに、なぜ「地面」は売り買いできて未来永劫自分の子孫が排他的に使えるのか? というのは容易に答えが出ない。山や川や畑や田んぼは個人の所有物である以前に共同体の財産であり、共同体として受け継いで行くべきものである。

綺麗な水や気持ちのよい空気が、大きな価値がありながらどんなお金持ちでも所有できないものであるのと同様、土地だって真の意味で所有することはできないのではないか? これを考えていくと全体主義にまで行き着いてしまう危険性があるが、そういうことを考えずに、弥縫策のみで現在の土地問題を解決しようとするのはまた危険であると思う。

かつてアメリカへ入植してきた白人は、先住民(ネイティブアメリカン)から土地を強奪したのではなかった。先住民が居住していた広大な土地を、形式上、合法的に購入したのである(もちろん、それは詐称的な取引であることが多かったが)。土地の購入を持ちかけられた先住民は、土地の所有権が紙切れ一枚で決まってしまうことを奇妙に思ったという。

先住民のチーフ・シアトル(シアトル首長)は、土地の購入を打診してきた合衆国政府に対して見事な手紙で答えた。「我々は知っている。大地は人間のものではなく、人間が大地のものだと言うことを」(※)

【参考文献】
※『神話の力』2010年、ジョーゼフ・キャンベル&ビル・モイヤーズ 飛田茂雄 訳
チーフ・シアトルの手紙は有名。こちらに引用されているのでご関心があれば。

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