2014年1月14日火曜日

なぜ鹿児島では浄土真宗が多いのか——鹿児島本願寺派小史(1)

鹿児島には、浄土真宗の家がとても多いように思う。ちゃんとした統計がないので県内全域のことは分からないが、少なくとも私の行動範囲で考えると、8割以上が浄土真宗、それも西本願寺系であるように見える。

どうして、鹿児島には浄土真宗がこうも広まっているのだろうか? 真宗興隆の長い歴史を持つ北陸などと違い、鹿児島では戦国時代からの300年もの間真宗は禁教とされてきた。にも関わらず、どうして鹿児島では真宗が支配的な宗派となっているのだろうか?

私は漠然と、むしろ真宗が長い間禁じられていたからこそ、信教自由の時代になって爆発的に広まったのではと思っていた。禁じられているものは、禁じられているがゆえに一層有り難く、また力のあるものだと受け取られていただろうし、実際に鹿児島には「隠れ念仏」という史跡が多数残っており、これは役人の目を憚って念仏を行うための秘密の施設だったのである。こうして藩政時代にあっても秘密裏に真宗に帰依する人々が多かったから、その弾圧が解かれた時、真宗は一挙に広まったのではないのか。

しかし、鹿児島における真宗の歴史を調べてみると、ことはそう単純ではないことが分かってきた。むしろ非常に複雑な事情が絡んでいて、とても簡潔には説明することができないような、歴史の悪戯の結果ですらある。

というわけで、鹿児島における真宗開教の歴史を繙き、なぜ鹿児島には真宗、特に西本願寺派(※1)の家が多いのかという疑問を解いてみたい。

さて、鹿児島県民には周知のことだが、先述の通り鹿児島では藩政時代を通じて真宗(一向宗)は厳しく禁じられていた。なぜ一向宗が禁じられていたのかその理由は明らかになっていないが、主には念仏のネットワークで百姓が団結し一揆に発展するのを恐れたからということと、門徒が本願寺へ金品を上納するのを嫌ったからとされている。ともかく政治的な理由で真宗は禁じられていたのだった。

幕末になると復古神道の盛り上がりで真宗のみならず仏教全般に対する敵意が高まり、鹿児島では全国的に見ても苛烈な廃仏毀釈が行われた。驚くべきことに、千寺以上あった仏教寺院は全て廃寺とされ、僧侶も一人残らず還俗(げんぞく:僧侶でなくなること)させられたのである。明治2年のことであった。

ところが、明治9年に突如として鹿児島にも信教自由が布達されることになる。解禁の直接の原因となったのは宮崎県との合併だ。既に信教自由となっていた宮崎県と合併するにあたり、県内での整合性をとったためであった。というより、既に全国的にはキリスト教も含め信教自由の時代になっていた。だが鹿児島では長きにわたって禁教下にあったため、信教自由については慎重論も多かったのである。そんな状況の中で、自由化を後押ししたといわれるのが、鹿児島出身で真宗門徒であった田中直哉という人だ。

この人は新聞記者で「民権家」、今で言う民主的政治を求めるジャーナリストで、文筆を背景に時の県令(今で言う県知事)大山綱良や中央の当局者に「王政維新になって居るに本県のみが信教自由の恩恵に浴せぬと云うは、非文明である」と合併前に訴えていたのである。

とはいっても、もちろん個人の力だけで信教自由となったわけではない。中でも、大久保利通や西郷隆盛が宗教に関して進歩派で、信教自由を推し進める立場にあったことには注目しなくてはならない。いや、信教自由という一般論を超えて、彼らは真宗西本願寺派に対してとても親和的な態度を取っており、大久保に至っては明治9年の信教自由の布達の際、西本願寺派の法主明如(大谷光尊)に鹿児島での開教を要請しているほどである。

なぜ大久保は、鹿児島で真宗を広めるよう要請したのだろうか? 実はこの時代、真宗、特に西本願寺派は明治政府と深い関係にあり、大久保の要請は個人の信条などではなく、政治的な目的に基づくものであった。

それを理解するには、少し時間を遡り、明治維新の時からの東西の本願寺の動きを見てみる必要がある。幕末、東本願寺は徳川家と親密な関係にあったために佐幕的であり、西本願寺は逆に勤王・倒幕的であった。西本願寺は倒幕運動に協力し、僧兵の出兵、朝廷への献金を行ったのである。倒幕勢力にとって西本願寺は重要なパートナーとなり、特にその献金は彼らの重要な資金源となっていた。

やがて王政復古の大号令で勝敗が明らかとなり、かつて佐幕的であった東本願寺は、逆に新政府に対して積極的に献金を行うようになる。これは東本願寺にとって、反政府的であると見なされないための必死の生き残り策であったようだ。当初より新政府側についていた西本願寺はこの点を気にする必要はなかったが、おそらく東本願寺に対する優位性を確保したいという思惑と、新政府との関係をより強くするために、戊辰戦争においては東西本願寺の双方が僧兵の出兵や献金を盛んに行った。未だ基盤が弱かった新政府にとって、東西本願寺の持つ資金力、組織力、そして全国に広がるネットワークといったものは大きな助けになったことであろう。

こうして東西の本願寺が新政府との関係を強くしたいと願ったのは、新政府が仏教勢力にとって非常に不都合な原理を構築しつつあったからでもある。すなわち新政府は、遙かな過去に行われていたはずの、神の子孫である天皇による治世を再現しようとしていた。つまり王政復古こそが明治政府の依って立つレジティマシー(正統性)であったわけで、指導原理は当然ながら神道であり、仏教はよく言っても夾雑物扱いされざるを得ない。

実際に、明治に至ると神道は国教化され、本来分かちがたく混淆していた神道と仏教は分離させられた。これに伴って各地で廃仏の運動が起こったのである。明治5年には仏教に著しく不利な政策は改められたが、神道の国家的色彩はより強くなっていき、太平洋戦争まで突き進む近代日本の神権政治が加速していく。

仏教勢力がこうした状況に危機感を覚えたのは当然だ。特に西本願寺はこの状況に機敏に対応し、早くも明治元年には「真俗二諦(にたい)」を教義に規定している。これは、真の世界=仏の世界の真理である念仏による往生と、現実世界の真理=敬神と報国は車の両輪である、とする考え方である。本来、仏教的には天皇=神へ従うことを教義的に位置づけることはできないはずで、特に真宗においては阿弥陀仏への帰依が絶対唯一の信仰であるから「絶対的な神としての天皇」は相容れない存在だ。

しかし現実に、そうした方針の下で宗教界が大胆に再編されていく中、天皇の権威を認めなければ仏教の存在自体が危うくなる。そのため、西本願寺は真俗二諦を旗印に政権への協力姿勢を鮮明にし、積極的な献金、戦争協力、そして民衆の教化に邁進したのである。他の仏教教団も多かれ少なかれ政権の進める国家神道と妥協しなくてはならなかったが、とりわけ西本願寺が積極的に政権を支えたのは、機を見るに敏なリーダー法主広如の存在によるのであろう。

そういうわけであったから、西本願寺は政権に迎合し、その支配権の確立のため、民衆に「神を敬し、国を愛し、倫理を守り、法令に遵」うことを仏法の名の下に指導したのであった(※2)。当時の多くの人にとって、明治政府の急進的な政策はなじみのないものばかりで、特に敬神という信仰上の問題は容易に受け入れがたいものであったろうから、それに全国的ネットワークを持つ西本願寺が協力したことの意義は大きい。

事実、鹿児島は明治維新後も新政府の方針に従わない「独立国」の様相を呈し、政府の法令が及んでいなかった。特に明治6年に西郷が大久保と決裂して帰郷してからは新政府への失望と敵愾心が士族層に広がり、反政府的な雰囲気が横溢していたのである。鹿児島の反政府的な動きを憂慮した大久保が、西本願寺による民衆の馴化と慰撫を期待したのは当然であろう。鹿児島における信教自由の布達は、こうした状況の中で行われたものだった。西南戦争が起こる半年前のことである。

こうして、かつて反体制的なものとして禁じられた真宗が、今度は体制側となって鹿児島に入ってきたのである。禁じられたのも政治的理由なら、導入されたのも政治的理由だった。鹿児島にとっての真宗との出会いというのは、大変不幸なものだったのである。

※1 「西本願寺派」と書いたが現代の正式な用語は「本願寺派」である。ちなみに「東本願寺派」は「大谷派」。だが西と東の方が分かりやすいので便宜的にこう書くことにした。

※2 鹿児島に派遣された執事大洲鉄然の出張趣意書(明治9年12月)より(原文カナ、句点無し)。

【参考文献】
近代日本の戦争と宗教』2010年、小川原 正道

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