2013年6月28日金曜日

水陸両用バスに試乗

先日、南さつま市が実証実験として運行した水陸両用バスに試乗させてもらった。南さつま市では、海沿いの景観を生かした観光振興の一環として、話題性のある水陸両用バスの定期運行を計画しているという。

当日の試乗コースは仁王崎から片浦漁港へ行き、そこから進水して片浦湾内を一巡りしてまた元に戻ってくるというもの。全体を通じてみて、ネガティブで申し訳ないが「定期運行したら赤字だろうな」と思ってしまった。

片浦湾内の景色は悪くないが、やはりなぜ水陸両用バスでなければならないのか、というところがぼやけていて、観光するなら遊覧船でいいんじゃないかと思う。この水陸両用バスは波が静かな内海でしか運行できないのではないかと思われるが、おそらくそのためにコースが片浦湾内に限定されてもいる。本当にそうかどうかはわからないものの、あえて片浦湾内を観光しているというよりは、外海に行けないからしょうがなくそこを巡っている、という感じがぬぐえない。

せっかくの水陸両用バスなので、バスでも、遊覧船でもできない特徴的な観光コースができればよいと思う。例えば、無人島に上陸するとか、そういう無茶はできないものだろうか。少なくとも、「景色がきれい」という漠然としたアピールの仕方ではなくて、「水陸両用バスでしか見られないこの景色が見られます!」というような目玉が欲しいところである。

他にも、実際に定期運行を考えると難しい点が多々あり、予算的なことも考えると、イベント的な運行に留めておいた方がいいような気がする。

ただ、船上で観光ガイドをしていただいた「加世田いにしへガイド」の方の案内は結構ためになり面白かった。短い遊覧コースではあったが、そこには意外にもたくさんの歴史があり、ただ風景がきれいなだけではない、奥深い内容があったと思う。観光振興には話題性も重要だが、ああいう地味な活動はもっと大事だと思うので、同じお金を使うなら、そういう草の根の動きを一層盛んにするような使い方をしてもらいたい。

2013年6月23日日曜日

なんちゃって有機農業、の結果

先日、露地(9尺トンネル)のかぼちゃを収穫して農協に出荷した。出来はどうだったかというと、想定よりも出荷コンテナの数が少なかったので、やや不作だったと言えるだろう。

不作だった原因はいくつかあり、重要な時期に強風が吹いて樹勢が弱ったから、ということもあるが、主な原因は当初「有機的管理」、つまり「なんちゃって有機農業」でやろうとしたためだろうと思われる。そこで、個人的な備忘メモになるが、今回感じたことを記しておこうと思う。

まず、今回コンパニオン・プランツというものを試してみたが、これにはあまり効果はなかった。コンパニオン・プランツとは、簡単に言えば生育を互助するような相性のいい植物を共に植えることをいう。かぼちゃの場合はネギと相性がいいということで、種の段階からネギを混植してみた。これ以外の条件をきっちり同じにしていないので、統計的に意味のあるデータは取れなかったが、どうも効果はあったとしても小さいようだ(まあ、元よりそんなものだろうとは思う)。ただ、これに関しては別段手間やお金がかかることでもないので、今後もいろいろ試してみたい。

次に、今回は農薬を1回しか使わなかった。というか、最初は栽培期間中無農薬で作ろうと思っていたのだが、結局カボチャうどん粉病が激しすぎて葉が持ちそうになかったので、やむなく1回使った、というのが実態である。農協に出荷するものなので、農薬を無理に減らす必要はないし、減らしても特に値段が変わることもないけれど、農薬が経れば経費も減るし、自分が嬉しいので試してみたところである。結果から言えば、農薬は2回は使った方が経営的には良かったと思う。

当初はアブラムシがひどく、大丈夫か不安になったが、これは意外と放置していても平気で、一部潰滅したところもあったが、思ったほど広がらなかった。適切な間隔で定植していれば、特に何も対策をしなくても、アブラムシによる減収効果は2〜5%ではないだろうか。これは最近よく言われるようになった「経済的被害許容水準」というやつに合致しているだろう。ちなみに、この経済的被害許容水準というのは、乱暴に言えば「この程度の病害虫だったら、経済的被害が小さいから放っておきましょうね!」という考え方である。

結局かぼちゃの病害虫防除の主戦場はうどん粉病であって、これをどれだけ避けうるかによって農薬が減らせるかが決まるのだと思う。

こうしてほんの数ヶ月ではあるが有機的管理をしてみて思ったのは、有機農業というのは農薬なり化学肥料なりを使わない農業、ということではなくて、圃場生態系を整えて病害虫の発生を抑制することで農薬や化学肥料を使わないで済む農業なのであって、単に農薬を減らそうとしても全然お話にならない、ということである。まず圃場生態系、つまり圃場に住む微生物から昆虫までの生態系をバランスのよいものにするのが第一歩で、わかりやすい言い方をすれば「土作りを頑張ろう」ということに尽きる。

だが問題は、どうしたらいい土が作れるのか、ということでこれには自分の中にまだ回答がない。さらに、本当によい土が作れたら、農薬使用をなくせるのかどうかも実際のところよく分からない。よく分からないけれども、しばらくはいろいろ試してみて、どういう可能性があるのかを実感してみたいと思っている。

2013年6月19日水曜日

二人の「日羅」——南薩と日羅(2)

坊津の一乗院の創建を始め、金峰山の勧請、磯間嶽の開山など、ありそうもない日羅の事績が南薩に残っているのはどうしてなのだろうか? また、古墳時代という遙かな古代に日羅が本当にやってきたのだろうか?

さて、始めにこうしたことがこれまでの地域史でどのように考えられてきたのかを見てみよう。まず坊津の一乗院だが、一応「我が国最古の寺」というのを触れ込みにしているものの、史学的にはこれは否定されており、せいぜい平安時代、おそらく鎌倉時代の創建と考えられている。本当に古代寺院だったとすれば古い資料にその名前が残っているはずなのに、実際には一乗院(龍巌寺)の名称はどこにも見いだせないのが主な理由だ。よって、日羅が創建したというのは文字通りあり得ない話であると一蹴されている。

次に金峰山の勧請(正確には、蔵王権現という修験道の仏の勧請)だが、幕末に編纂された『三国名勝図絵』において、日羅が勧請したという説を紹介しつつ「時世等の違いがあるので、名前が同じ別の人ではないだろうか」とされている。これ以外の史料に、金峰山の日羅による勧請を考察している記事を見つけられないが、要はあまり信憑性もないので相手をする人がいないのであろう。

まとめると、南薩に日羅が訪れ寺院の創建などを行ったという伝説は、かなり疑わしいものであるために真面目に取り扱われてこなかった、というところだ。これは、いわゆる「弘法大師お手堀の井戸」の扱いに似ている。全国各地に「弘法大師空海が錫杖(または独鈷)で衝いた所から水が湧いた」という伝説を持つ井戸があるが、錫杖で衝いて水を出すということ自体が荒唐無稽であるし、それが事実かどうか考証されることなどほとんどないと言える。日羅伝説もそれと同様の、荒唐無稽の妄説なのであろうか?

ここで視野を広げて他県の地域史を見てみると、日羅の父が国造をしていた熊本葦北を始めとして九州各地に日羅伝説が残っていることに気づく。特に注目すべきなのは国東半島(大分県)だ。国東半島は我が国で最も数多くの、そして素晴らしい磨崖仏が残っているところであるが、この磨崖仏のいくらかが日羅の作と伝えられており、また大分県内の寺院には日羅が刻んだという仏像も多く残る。

また、日羅が創建したとされる古代寺院は坊津の一乗院の他にも九州には多数あり、肥後七ヶ寺を始めとして天台宗の寺院に多い。一乗院は真言宗だが、いずれにしろ日羅の創建として伝えられているのは密教の寺院である。

さらに全国に目を転じると、日羅は愛宕信仰における勝軍地蔵菩薩の化身とされてもいる。愛宕信仰は修験道の一派の信仰であるが、国東半島で磨崖仏を刻んだのもおそらく修験者であることを考えると、日羅伝説は修験道と縁が深い。そして元々修験道は密教の一派として発達したのであるから、密教寺院の創建も広い意味では修験道と関連する事績に含められるだろう。
 
振り返って南薩の日羅伝説を鑑みると、金峰山も磯間嶽も修験道の修行の山であった訳だし、坊津の一乗院も先述の通り密教寺院であったということで、全国的な日羅伝説の傾向と合致しているのである。

こうしたことを踏まえると、各地に残る日羅伝説は、古墳時代の百済の日羅とは無関係であることは歴然としている。ポイントを簡単に述べれば、

  • 日羅は数多くの密教寺院を創建しているが、密教はいわば平安時代のニューウェイブ仏教であり、もし古墳時代に百済の日羅が寺院を創建するとすれば南都六宗のようなもっと古風な宗派であるはずだ。
  • 日羅は自ら仏像や磨崖仏を刻んでいるが、飛鳥時代以前には仏像は工人(技術者)が造るもので、仮に百済の日羅が僧侶だったとしても自ら仏像を制作するのはおかしい。
  • そもそも磨崖仏や修験道は平安時代に生まれたものであるから、古墳時代の百済の日羅がこれらと縁があるわけがない。また日羅作と伝えられる磨崖仏も平安〜鎌倉の作と比定されているものが多い。
というところだろう。実は、こうしたことは既に大分県の史学界で考証がなされており、国東半島に磨崖仏を残した人物が「百済の日羅」とは無関係であることは定説というか常識である。だが、日羅伝説は各地の寺院が権威付けのために野放図に捏造したようなものでもなく、そこに一定のパターンというか、ある種の筋が通っている部分もある。日羅伝説を俯瞰してみると、修験道の行者(山伏)という「日羅」の人物像が浮かび上がってくるような気もするのだ。とすると、磨崖仏を刻んだ「日羅」と呼ばれる人物が別にいた、ということなのだろうか?

これに対しては各種の仮説が呈示されている。例えば、そういう特定の人物はいなかったが、各地の磨崖仏などが「日羅」という有名人に奇譚的に託されたのではないかと考える人もいるし、「日羅」という「百済の日羅」と同名の修験者が実際にいたが、時が経るにつれ「百済の日羅」と混淆していつしか同一人物になってしまったのではないか、という説もある。

こうした説のどれが正しいかは、もはや状況証拠的には決められない。真相は、闇に包まれている。しかし、日羅伝説が成立したと考えられる平安時代、磨崖仏なり仏像なりを400〜500年も前の古墳時代のものとして「捏造」するのはさすがに大それているし、何かのきっかけがなければ日本書記にしか記録が残っていない「日羅」が復活するとは考えにくい。

とすると、説として魅力的なのは、平安時代あたりに各地で磨崖仏を刻み、寺院を創建した「日羅」と名乗る人物が実在した、というものだ。つまり、約500年の時を経て、日羅は二人いたということになる。ここではその「日羅」のことをわかりやすく「修験の日羅」と呼ぶことにしよう。「修験の日羅」は、各地の山林を抖擻(とそう:歩きながら仏道の修行をすること)して、あるところでは磨崖仏を彫り、またあるところでは寺院を創建(といっても、多分祠堂を設けるとか、仏像を安置するといった程度のことと思う)したのだろう。その活動範囲は九州一円にも及び、各地に「日羅」の事績を残したと考えられる。

どうしてこの「修験の日羅」の記憶がなくなり、やがて「百済の日羅」に置き換わってしまったのかはよくわからない。想像するに、『日本書記』に日羅の記述を見つけた人が自らの権威を高めたかったのか、「うちは日羅創建の古寺である」と誇り、それが連鎖反応的に広まったのかもしれない。そうしたことが続くうち、「日羅」というのが一種の超越的な、古代のスーパーマンとしてアイコン化し、実際には「修験の日羅」にも関係がない所にまで日羅伝説が広まっていったということがあるのだろう。それが勝軍地蔵が日羅の化身と考えられるに至った理由であるように思われる。

そのように考えると、この南薩の地に「ありそうもない話」である日羅伝説が残っているのは、まるきり荒唐無稽なこととは思われない。つまり、「百済の日羅」とは無関係であっても、「修験の日羅」が実際にここへ来て、一乗院を創建したり、金峰山を勧請したり、磯間嶽を開山するといったことをやったという可能性はゼロではないのである。薩摩の地には古くから修験道が栄えていたというし、元より修験者=山伏は各地を巡りながら修行をするものであるから、この辺境の地まで赴いてもおかしくはない。

一方で、そうだとすると古墳時代に遡ると思われた磯間嶽や一乗院の歴史が、それよりは随分新しい平安時代以降のものとなってしまうので、古さを誇りたい人には残念かもしれない。しかし、私自身は「古ければ古いほど有り難い」とは思わないし、荒唐無稽な古さを主張するよりも、実際にあったかもしれない過去を想像する方が楽しい。我が家から毎日見ている磯間嶽に、平安時代に大分(か熊本)から「日羅」と名乗る修験者がやって来て、岩山をよじ登り祠堂を設け、そしてまた旅を続けたのだと考えてみたい。彼はその時にどんな大浦を見たのだろうか。土地の人々に何を教えたのだろうか。そういう風に考える方が、私は楽しいのである。

と、いろいろ書いてきたけれど、私はこちらに越して来てから実はまだ一度も磯間嶽に登ったことがないのである。早く磯間嶽に登って、日羅が見たかもしれない風景の1000年後の様子を見てみたいと思っているところである。

【参考文献】
「日羅の研究—「宇佐大神氏進出説」批判(3)—」(『大分縣地方史』第116号所収)1984年、松岡 実

2013年6月17日月曜日

磯間嶽は遙かな古代から信仰された山か?——南薩と日羅(1)

大浦町の南側は、磯間嶽という山が塞いでいる。磯間山とも言うし、もっと親しみを込めて「いそまどん」とも呼ばれる山である。

この山、標高は363mと低いながら巍巍とした威風ある山容を持ち、特に天を衝く山巓(さんてん)はあたかも鬼の頭のような異様な風体をなしている。

また、急峻な岩稜は短いながら本格的な登山が楽しめるといい、山と渓谷社が選ぶ九州百名山(旧版)の一つに選ばれたこともある。この特徴的な山影はほとんど大浦町の全体から望むことができるので、ある意味では大浦町の象徴ともいうべき非常にモニュメンタルな山である。
 
磯間嶽の山頂には、かつて磯間権現という社があったのだが、磯間嶽は日羅(にちら)という人が敏達天皇12年(583年)に開山したという伝説を持つ。この場合の「開山」とは登頂して祠堂を設けたことをいうのだろうが、磯間嶽が今から1400年以上前という遙かな古代、古墳時代から尊崇された山だとすると驚くべきことである。

しかし古墳時代というのはさすがに古すぎる。ほとんど歴史を無視したような古さである。本当に、そんな遠い昔に開山された山なのだろうか。また、磯間嶽を開山した日羅という人物は何者なのだろうか。そうしたことは、これまで真面目に考証を受けたことはないようなので、この機会に少しまとめてみたいと思う。

この日羅という人物、知名度は極めて低いが、古代史の中でも大変に興味深い存在である。彼は熊本(葦北)の国造の子であったが、百済の高官であった。百済では達率(だちそち)という位にあったといい、この達率は百済の官位第2位で定員が30名であったそうだから、今で言うと大臣級のエライ人である。

葦北に父を持つ日羅は、元々百済に生まれたのか、熊本から百済に渡って高官に上り詰めたのか、そのどちらなのかは分からないけれども、ともかく日本に深い縁を持っていた。そのため、朝鮮半島情勢を憂えていた敏達天皇はこの日羅を外交顧問として日本へ招聘した。百済の王は当初日羅の渡日を首肯しなかったが、日本からの使者の強い要請を受けて承認。その代わり、大臣級の渡航ということで当然の待遇だったのだとは思うが数々の部下も同時に来日させた。

この頃の日本は、朝鮮半島の権益を失いつつあったタイミングで、また新羅の領土拡張策などを警戒しており、朝鮮半島への強攻策を検討していた模様である。敏達天皇はこうしたことから日羅に朝鮮半島の諸国家への対抗策を諮問する。それに対し、彼は極めてまっとうだが、一方で百済に不利な建白を行ってしまう。そしてなんと、その廉(かど)で百済からついてきた部下に暗殺されてしまったのである。百済王は、百済の内情を知悉していた日羅を元々殺すつもりで日本に送ったのであろう。天皇はこの暗殺を遺憾とし、百済からついてきた部下たちを死刑にして日羅は丁重に葬ったという。敏達天皇の12年、西暦583年のことであった。

日羅は、(日本書紀には記載がないが)伝説によれば聖徳太子の師でもあったといい、百済から招聘されながら日本で部下に暗殺されるというドラマチックな生涯と、実は後世にも大きな影響を与えていることから、これまであまり注目されてこなかった人物ながら、古代史の重要人物といってもよかろうと思う。

そして、日羅は実は南薩にも深い縁を持つ。我が国最古の寺(かもしれない)、との触れ込みの坊津の一乗院は同じく583年に日羅が開基したといい、金峰山も日羅が大和の金峰山から勧請(かんじょう:今風に言えば、金峰山の”支店”を作るような感じである)したものという。遙かな昔、この辺鄙な南薩に日羅が本当に来たのだろうか?

ちなみに、鹿児島には南薩の他にも慈眼寺清泉寺も日羅が建立したものという伝説がある。慈眼寺は一乗院宝満寺とともに「薩摩三名刹」と謳われた寺であるが、薩摩三名刹のうち2つもが日羅建立の伝説を持つわけで、それだけでも鹿児島県の歴史に興味を抱く人はこの日羅に注目すべきである。一方で、日羅が百済から日本へ渡航して暗殺されるまでの短い期間(しかも古墳時代)に、この辺境の地に赴き、いくつもの寺院を作るというのはありそうもない話である。しかしその「ありそうもない話」が、鹿児島、そしてこの南薩に数多く残っているとすると、その理由を考究していくのも一興だ。

と言うわけで、その理由を自分なりに考えてみたのだが、長くなったので次回に書くことにしたい。

【参考文献】
『日本書紀 下(日本古典文學大系67)』1967年、坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野 晋 校注
『大浦町郷土誌』1995年、大浦町郷土誌編纂委員会

2013年6月14日金曜日

アボカドの栽培にチャレンジします

遂に、昨年来計画していたアボカドを植え付けた。面積は、耕作放棄地の藪(林?)を開墾したところの約1反(10a)、本数は約50本。

アボカドは日本ではまだほとんど経済生産されていない作物だが、近年その食べ方が浸透してきて消費が急激に伸びており、価格も安定していることから注目を集めている。

お店に並んでいるのはメキシコやニュージーランドからの輸入ものがほとんど、というかほぼ100%で、国産アボカドへの需要は大きいと見られている。というのも、長い航海に耐えるため保存性の良い「ハス」という品種が輸入されているが、これはアボカドの品種の中では必ずしも代表的なものではないからだ。

日本でアボカドというと、黒くてゴツゴツした無骨な印象があるかと思うが、アボカドグリーンという色名があるように、実は鮮やかな緑色のつるんとした果実の品種がアボカドの代表選手だ。

というわけで、私は緑色の果実がなるベーコンとフェルテという品種、それから受粉樹としてゴツゴツ系であるピンカートンという品種を植えてみた。アボカドはカンキツのように非常に品種が豊富で、何千種類もの品種があるといい、熱帯果樹ながら意外と耐寒性のある品種もある。このベーコンとフェルテという品種はマイナス5℃くらいまで耐えられるそうだから南薩では十分に越冬できる。ピンカートンは実は少し耐寒性が弱いが、枯れたら別の品種に植え直そうと思う。

ちゃんと調べたわけではないが、現在10a以上の規模でアボカドを作っている農家は国内にはほとんどない。多分、両手で足りるほどではないかと思われる(間違っていたらすいません)。つまり、もし私のアボカド農園が成功したら、日本でも有数のアボカド農家になれるわけだ。

というのは冗談だが、実はアボカドには一つ期待していることがある。アボカドは廃園になったミカン園に植えるのが最適ということで、ポンカンなどのミカン園がどんどん廃園になりつつある大浦でも、これが新たな特産品になりうるのだ。アボカドは収穫には若干手間がかかるがそれ以外はあまり手が入らず、粗放な管理が可能であるために人手もさほど要しない。かなり大きくなる木なのでハウス栽培が難しく、本州での栽培可能地域は和歌山など一部に留まるので、南薩の温暖な気候の優位性も生かせる。

こうして密かに期待しているアボカドであるが、調べて見ると鹿児島県は随分昔にアボカド栽培を振興し、そして失敗した歴史を持っている。昭和22年頃に地区ごとの特産品を作ろうという計画を立てた際、カンキツやビワが地区ごとに特産果樹として割り当てられたが、南部の高温地帯(たぶん離島のことと思われる)にはアボカドとレイシの増殖が割り当てられた。しかしこの計画は思うようにいかず、5年程度して雲散霧消してしまったようだ。

どうしてこの時にアボカド振興がうまくいかなかったのか、その理由は調べられなかったが、一つには戦後まもない頃にアボカドを食べる奇特な人がいなかったということがあるだろうし、食糧増産に邁進していた頃に、実をつけるのが6年以上も先という悠長な植物を植える気にもならなかった、ということもあるだろう。だが今ではアボカドの需要も大きく、今回植えたアボカドが6年後に実をつけたら、かなりの商品性を持つことは間違いない。問題は私の圃場の土壌があまりよくないので、ちゃんと枯れずに生長するかどうかである。粗放な管理が可能ということだが、時が満ちたら「南薩のアボカド」を新たな特産品として提供できるように、しっかり管理していきたい。

【参考資料】
『鹿児島県戦後農業史 上』1992年、鹿児島県戦後農業史編集委員会

2013年6月11日火曜日

大木場山神のナギの大木

大浦の大木場山神(やまんかん)、いわゆる大山祇神社に、大浦で唯一のナギ(梛)の大木があるというので見に行った。

ナギということでてっきり御神木だと思っていたが、御神木っぽいものは樹齢200年ほどのクス(たぶん)の大木で、ナギは見当たらない。よく探してみるとクスの陰に控えめにあるのがナギの木だ。

大木と聞いていたが、意外に周囲は太くない。でも樹高は高くて、多分20mくらいある。樹齢は(あまり大きなナギを見たことがないので)全く不明だが、生長の遅いナギのことであるからゆうに100年以上はあるのだろう。

ナギというと、九州には自生していたのではという説もあるが基本的には人が植えないと単体で存在する植物ではないので、100年か200年、あるいはもっと前に誰かがここに植えたということになる。

ナギを御神木とするのは熊野信仰が有名だ。熊野速玉大社(和歌山県)には樹齢1000年を越えるナギがあって、今でも信仰を集める。江戸時代には熊野詣でのお土産に神社がナギの葉を配っていたとか、勧進(寄附集め)にナギの葉を配ったという話もあり、神聖な近寄りがたい樹、というより、その葉が親しまれる身近な樹である。

というのも、ナギは針葉樹ながらまるで広葉樹のような幅広の葉を持っている変わった植物で、非常に独特なその葉は一見してナギと分かるアイコンだ。ナギ以外にこんな葉を持つ植物を私は知らない。

さらに葉の繊維がとても丈夫なことから、男女の結びつきを強めるという信仰もあり、今では縁結びのアイテムにもなっている。また少し眉唾だが、ナギ=凪ぎと通じることから航海安全を願う漁民もこれを崇めたともいう。

とまあ、ナギという植物は古来より信仰を集め、また実用性もあった樹だけにネット上にも様々な情報がある。興味のある向きは検索すれば沢山出てくるので調べて見て欲しい。

さて、このナギがどうして大木場山神にあるのだろうか? 昔のことなので実際のところは分からないが、かつて山伏たちが熊野信仰を積極的に広めていた折、ナギの実か苗を持ってこのあたりを回っていたのではないかと想像する。それで、山伏からもらったそれを神社に植えたのだと思う。

このあたりだと、未見だが加世田の益山八幡神社にもナギの大木があるという。もしかしてこれは同じ山伏が配ったものなのではないか、だとすれば話が出来すぎだが、向こうのナギも特に御神木ではないらしい。「これはありがたいものだから」という山伏に勧められて半信半疑で植えたナギ、というのが、クスの陰に追いやられている、特に尊崇も受けていない(らしい)大木場山神のあのナギの真相ではないかと思っている。

2013年6月9日日曜日

笠沙恵比寿の「たかえびバーガー」

先日、笠沙恵比寿に「たかえびバーガー」を食べに行った。

このためだけに行ったのだが、レストランに着くと「たかえびバーガーはカフェタイム(14時〜)にしかやっていないんですよ〜」とかで出鼻を挫かれた。だが「そこをなんとか!」と頼んだら出てきた。ごねてみるもんである。

そもそも初めて知ったが、笠沙恵比寿のレストランは昼と夜は「秋太郎」、カフェタイムは「海音呼(うみねこ)」と名前が変わり、たかえびバーガーはこの「海音呼」の方のメニューらしい。どうしてこういうわかりにくいシステムにしているのだろう…。出世魚みたいだ。

さて、期待のその味だが…、あれ、思ったほどでもない。美味いか不味いかで言うと美味いし、B級グルメとしてはよくできているが、私はB級グルメには興味がなく、むしろグルメが食べたいのである。

具体的に言うと、まずバンズにフレッシュさがなく見た目がよくない。食べてみると見た目ほど気にはならなかったが、焼きたてのパンのような弾力と香ばしさが欲しい。次にタカエビで出来たパティ(?)だが、一般的なエビバーガーのそれよりもエビの味が強く出ていて、その点はいいと思った。だがフライに使用している油がよくないのか、口当たりが雑な感じがして少し油っぽい。サクッとカリッと揚げつつ、中はジューシーなエビがたっぷり、というのが理想だろう。

全体的な評価としては、「ジャンクフードとしては素晴らしいが、皿に盛りつけられると少し物足りない」だろうか。期待して行っただけに正直残念である。だが、タカエビ丼みたいな料理より、こっちの方が若い人には受けるんではないかとも思う。タカエビ丼も美味しいけれど、海鮮が美味い地域には似たようなものがたくさんある。

それに私の思い込みかもしれないが、漁港には「海鮮は生で食べるのが一番。新鮮だから生でも美味しい」みたいな先入観があると思う。しかし一般消費者は特に生の海鮮にこだわりはないのではないか。刺身だから有り難いというのは、冷蔵技術が未熟だった過去の話だろう。今ではむしろ、ご当地グルメにはその食材の可能性を最大限に生かす調理法が求められていて、「新鮮な海鮮丼が食えるよ!」というだけではウリとして弱い。

だから、自分自身厳しい評価をしておいてなんだが、笠沙恵比寿が「たかえびバーガー」を何も広報せず、知る人ぞ知る、というかほとんど知っている人がいないメニューになっているのはもったいないと思う。もしかしたら利益率が低い商品だとか、何か裏事情があるのかもしれないが、積極的にお知らせして、いろんな人に食べてもらったらよいと思う。海鮮丼より随分安いし、気軽に食べられてそこそこ美味しいので、カフェタイムに笠沙恵比寿に来たら一度は注文すべきメニューと思う。というか昼もやってください。

2013年6月8日土曜日

別に幻じゃなかった「幻の芋」

冬、唐芋(サツマイモ)農家からおすそわけしてもらった各種のイモの中で、抜群に美味しいイモがあった。

品種を聞いてみると、「栗黄金(くりこがね)」という。あまりに美味しかったので、これまで関心がなかった唐芋栽培にトライしようと思い調べてみると、インターネットではこの栗黄金、「幻の芋」と呼ばれる貴重なイモと書いてある。

このイモを原料として、吹上焼酎が「白銀の露」という焼酎を造っているので、同社のウェブサイトから引用すると、
「栗黄金芋」は生育が難しく、鹿児島でもあまり生産されていない、珍しい芋です。
一時は途絶えてしまった品種を、うまい焼酎造りの為に復活させたもので、吹上焼酎は“7軒の契約栽培農家” に限って栽培して頂いています。
「栗黄金芋」は一般的な焼酎の原料である黄金千貫などの品種とは違い、澱粉質が上質で香りもよく甘味があって、外見は黄金千貫とさほど変わりません が、輪切りにすると黄色っぽい、夕焼け空のようなきれいな色をしています。畑で生育時、芋の葉の先がエンジ色をしている点も、普通の芋とは違う点です。
ということである。確かに栗黄金は普通には流通していないようで、苗もインターネットでは10本1000円で売っていた。これは、唐芋の苗としては目玉が飛び出るような高価格である。

そんなわけで、まずこの苗の入手をどうしようかと思案していた折、地元の物産館「にいななまる」でこのイモの苗(ツルといった方が正確か)が1本10円で売られていることを発見。早速これを100本購入して定植してみたが、それにしても「幻の芋」のはずなのに、なぜ物産館で苗が安売りされているのだろう…?

くだんの唐芋農家に聞いてみると、実態はインターネットでの情報とは随分違っている。まとめると、
  • 栗黄金の栽培は別に難しくない。というか、唐芋は全部同じ。
  • 確かに昔からあるものではないが、20年か15年くらい前から作っている。
  • 物産館などで売っている。
  • いろいろな品種を作っているけど、味は抜群。
とのこと。どうやら、家庭内消費のためや物産館で売るために作っている人はいるが、大量生産はされていない、というタイプのイモらしい。少なくとも「幻の芋」とは言えないもののようである。

では、抜群に美味しいこのイモが、どうして域外へ出荷されていかないのだろうか? これは推測だが、それは鹿児島の唐芋流通において、これまで美味しさというものがあまり重視されてこなかったからかもしれない。

鹿児島は日本一の唐芋の産地で、これは基幹作物の一つと言えるが、その用途は工業用デンプンや焼酎の原料などがほとんどであり、なんと市場販売(非加工品)は生産量の10%程度に過ぎない。唐芋は米が食えない水吞百姓のための救荒作物、という過去もあって、美味しい食材としてのイメージもなく、もはや家庭で大量に消費するものでもないので、栽培振興をする上では、デンプンとしての利用が進められてきた。県の試験場においても、唐芋の品種改良の主目的は、いかに良質なデンプンを産出するイモを創り出すか、ということにあったのである。

その甲斐あって「こなみずき」のような優れたデンプンを創り出すイモも生まれているが、基本的にはサツマイモデンプンの利用は低迷している。サツマイモデンプンは小麦デンプンやコーンスターチ、バレイショ、タピオカなどといった他の作物のデンプンと比べ中間的な性質を持っていて、悪く言えばこれといった特徴がないため、サツマイモデンプンに適した食材が見当たらないことがその大きな原因だ。

一方で全国に目を向けると、茨城や千葉といった他のサツマイモ産地ではそのほとんどが非加工用であり、鹿児島以外では扱いづらいサツマイモデンプンにこだわっているところは見当たらない。県の試験場での数十年に渉るサツマイモの品種改良とデンプン利用振興の取組も、なかなか実を結んでこなかった、と言えるだろう。やはり、唐芋はあくまで唐芋という食材として生かしていく方がいいのではないだろうか。
 
食材としての唐芋といえば、鹿児島においても、近年種子島の「安納芋」がブランド化に成功して随分と知名度を上げた。島というハンディキャップのある環境で、イモをより高価格で販売するために敢えて鹿児島全体の傾向と違う「美味しい芋」を目指した結果であろう。これに続けとばかり、南薩でも「知覧紅」がブランド化されているが、この成否はどうだろうか。

こうした傾向を踏まえると、この「栗黄金」も食材として美味しいイモ、というブランド化の可能性があると思う。なにしろ、唐芋農家をして「抜群に美味しい」と言わしめる味を持つ一方で、「幻の芋」とか呼ばれているわけだし、将来性は十分だ。唐芋の栽培は初めてなのでうまく収穫できるかわからないけれども、今年の冬はネットショップでこの「幻の芋」を販売してみたいと思っている。

【参考文献】
「新しいサツマイモでん粉の特性と食品利用への可能性」2013年、時村 金愛(鹿児島県農業開発総合センター 農産加工研究指導センター)

2013年6月6日木曜日

限界集落の「滅びの美学」

今年初めに出された本を読んだ。

幸せに暮らす集落―鹿児島県土喰集落の人々と共に―』。著者はジェフリー・S・アイリッシュさん。米国生まれのエリート、にもかかわらず甑島で漁師をした後に南九州市の川辺に移住したという破天荒な方である。

ヘビー級に変わっている著者のことはさておき、少しだけ本の紹介をしよう。本書は、平均年齢80近く、高齢化率89%という限界集落である土喰(つちくれ)の日常をエッセイ風に描いている。だがそこには幸せな暮らしがあるという。

この本のことを知ったとき、「どうしてそんな集落で幸せに暮らせるのだろう?」と思った。増える廃屋、荒れる農地、都会から帰ってこない子どもたち、老いゆく自分自身。このまま朽ちていくことがわかりきった社会。将来への希望がないところに、どうして幸せな暮らしがあるのだろうか。

本書は、「それでも人間は幸せに暮らせるんだ!」と主張する本ではないし、そもそも何か教訓的なことを述べようという本でもない。ただ、何気ない集落の暮らしを描いているだけで、特にこれといった事件が起こるわけでもない。海外からの移住者ながら小組合長(自治会長)になった著者のささやかな経験が述べられているだけだ。

だが、その行間には人間社会への深い洞察がある。どうして土喰のおじいちゃんおばあちゃんたちは幸せなのか、ということは特に説明もされないが読んでいれば明らかなことで、良好な、しかし馴れ合いではない人間関係、デイサービス等には頼るが精神的に自立した生活、狭い畑を耕し収穫を喜ぶ心。そういったことが集落の人たちの幸せの基礎になっていることが見て取れる。

もちろん、そこに若い人たちが帰ってきて、新しい何かを作り、集落がさらに発展していけばもっと幸せなのだろうが、既に土喰の人たちはこうした「村おこし」を諦めており、静かに滅び行く集落でにこやかに暮らしている。

それに対する著者の考えが本書の最後にあるので引用しよう。
私自身は、土喰集落のような住み心地の良い場所がなくなっていくのは寂しい。半面、ひとりの人間が亡くなるのと一緒で、ひとつの集落がなくなることはとても自然なことでもあると、日々自分らしく過ごしている集落仲間を見て最近思うようになった。(強調引用者)

つまり、本書に描かれる土喰の有様は、一種の「滅びの美学」なのである。滅びを受け入れることで、あくせくせず、日々の暮らしを楽しむことができるのかもしれない。だが、私自身はまだあくせくして高望みをしたい気持ちがあるし、まだ、そんな風に社会を達観することはできない。

一方で、国土交通省が2011年に出した『国土の長期展望(中間とりまとめ)』によると、
  • 日本の人口は今後100年間で100年前(明治時代後半)の水準に戻っていく可能性。この変化は千年単位でみても類を見ない、極めて急激な減少。
  • 国土の大部分で人口が疎になる一方、東京圏等に集中が起きる。
という空恐ろしい、が極めてありそうな予測がなされており、もはや小集落の消滅は既定路線である。私たちの暮らす久保集落の将来はどうか、というと、高齢化と人口減少の実態を踏まえると久保集落どころか大浦町自体が消滅するおそれもある。いや、日本全体の過疎地がそのような危機に直面している。

しかし消滅の淵に立ったとき、誰でもが土喰集落のお年寄りのように幸せに暮らせるのかというと、心許ない。良好な社会というのはフラジャイルなもので、田舎ならどこでも仲の良い隣人関係があるのかというとそういうわけでもないし、表面的には和気藹々とした地域が、ふとしたきっかけで日頃の不満が噴出して大混乱する時もある。

気持ちよく暮らす、ということは人生でもものすごく大きなことなのであるが、これを達成するためには地域に暮らす人間全てが「気持ちのよい地域」を作っていく努力をしなくてはならない。村おこしも重要だが、既に滅びの道をドライブしている我々は、将来への希望のない場所でいかに楽しく生きるか、を考えなくてはならないのかもしれない。

そういう意味では、本書の読後感には少しだけ『夜と霧』に近いものがある。アウシュビッツの収容所、圧倒的な絶望の中でも失われない人間性という最後の砦——。ユダヤ人虐殺という極限状況とありふれた「限界集落」を比べるのは大げさかもしれない。だが、今後の日本ではナチスが殺した数よりも、もっと多くの人口が失われていくのである。その中において、どうやって毎日を楽しむかということに自分としても取り組んでいきたいと思う。

2013年6月1日土曜日

かぼちゃ農家の誕生日ケーキ

先日迎えた誕生日で家内(と長女)が作ってくれたのはかぼちゃのケーキだった。

中にもフルーツ等は入っておらず、かぼちゃペーストが塗ってある。まさにかぼちゃづくし。たぶん、こんな(無骨な?)ケーキはなかなかないだろう。

うちのかぼちゃはもの凄く美味いというわけではないが、一応「加世田かぼちゃ」の末席を汚している存在であり、こうしてお菓子などを作るのには適している。また、どうしてかは分からないが、かぼちゃは油脂との相性がよく、ホイップクリームと一緒に食べるのは最高だ。ホイップクリームとかぼちゃというコンボには未だ開拓されていない大きな可能性がありそうだ。

さて、今年初めて先輩農家Kさんの支援を得てビニールハウスでかぼちゃを栽培してみたわけだが、この機会にその反省をしておきたいと思う。

第1に、二番果まで採ることができないかと芯止めをしなかったが(※)、やはり管理スペースが狭く、また樹勢維持も難しかったのでこの試みは失敗に終わった。何事もやってみなくてはわからないので、勉強にはなったが、無理せず一ツルに一果でよかったと思う。

第2に、追肥が足りなかった。ちょうど一番果が着く頃にやたらと樹勢がよかったので、もう少し抑え気味な方がいいくらいではないかと思って油断していたが、終盤にはかなり弱った。かぼちゃの場合、細く長く肥効が続くような管理をすべきで、ケチらずにこまめに液肥などを使用した方がよかった。

第3に、とはいうものの、ほぼ想定通りの収穫があったのはよかった。やや小さめな玉が多いような気もしたが、出荷できないような規格外の小玉は少なかった。

収穫されたかぼちゃはほぼ全量を農協に出荷し、2kg±100gの秀品だけを確保して「南薩の田舎暮らし」での販売に向けた。1個1200円ということで、かぼちゃとしては高額だが、農協への卸価格から計算すると生産農家ですら1個1000円以上で売らないと利益が出ない。ということは、(実見したことはないが)実際の小売りでもこの程度の価格で売っていると思われるので、ほぼ市場価格のはずである。

だが正直、この価格で買ってくれる人がいるのだろうか? と心配だったが、今日、なんと宮崎の都城から人が来て、「おたくのかぼちゃをうちのインターネットショッピングモールで販売しませんか」という話を持ってきた。話をよく聞いてみるとシステム利用料の負担が通年で生じるのでお断りしたが、よくぞこんな零細企業のネットショップを見つけてわざわざ都城から足を運んだものだと感心した。

ここは日本の端っこなので、かなり特徴的なものを作っていかなくてはインターネット販売で利益を出していくのは難しい。そういう観点からは、やたら大きくて扱いにくく、ギフトにもならない「高級かぼちゃ」という、残念感がある難しい商材は逆に将来性があると見ている。というのも、大手は誰もこれで利益を出していこうとは思わないだろうから。

※ 「加世田のかぼちゃ」では基本的には一ツルに一つのかぼちゃを着けるので、かぼちゃの実が着いたらツルの先を折り取ってそれ以上ツルが伸びないようにする。今回その作業をせずにツルを伸ばしてみたが、当然ながらツルが伸びるためには栄養が必要になるので、それで後半の樹勢が落ちたのだと思う。